吉川マチコが結婚することになり、上司の橋本ヒデハルが相談を受けることになった。仕事が終わった後、駅前の喫茶店で話をしようと約束した。
コーヒーカップを前に、あれやこれやと話しているうちに、午後9時を回ってしまった。もうそろそろ帰らなければ。二人は自然に喫茶店を出た。
駅まで一緒に歩く。改札を過ぎ、マチコとは別の列車に乗るためにプラットホームへ出たとき、橋本のケータイが揺れた。メールだ。妻からだった。夕方「今日は遅くなる」とメールしたときは返事がなかった。今ごろ気付いて返信してきたのか?と思って読みだす。題名はなく、本文は短かった。一言「見たわよ!」とあった。
瞬間、橋本は背筋が凍る思いがした。見た? 何を見たというんだ。そんな疑問の言葉が頭に浮かぶものの、その答えも自分の中にあった。マチコと一緒にいるところを見られたのだ。
やましいことは何もない。相談を持ちかけられたから、それに応えただけだ。しかし妻は、納得するだろうか。喫茶店で笑いながら話す二人。駅までの道のりをにこやかに進む二人。それを見て、妻がどう思ったのかを考えると、不安になった。
さっそく返信メールを打って、状況を説明しようとした。が、橋本は考えた。ここで急に説明をするのは、かえって変ではないか? 言い訳がましく聞こえるのではないか? では無視しておこうか……。うーん、それもまずい。無視すれば認めたことになる。それなら妻からのメールに気付かなかったことにしようか。それもまずい。今までそんなことは、一度もなかったのだから。
家に帰りたくない気分だった。しかし帰らなければ、事態はますます、まずい方向へ進む。橋本は、重い足を引きずりながら、家路をめざした。
帰宅すると、妻はテーブルに伏して、うたた寝をしていた。見るとそばに、男女のカップルが印刷されたプラスチック製のケースがいくつも散乱している。その顔には見覚えがあった。
「これって、例の韓国ドラマ……」
そして橋本は、昨夜の妻との会話を思い出した。妻がずいぶん前に友達から借りたドラマのDVD。まだ半分しか見ていないことを橋本がなじったのだ。いい加減に返さないとまずいんじゃないのか?と。
「そうか。『見た』のは、このDVDのことだったのか」
たぶん残りを一気に見たのだろう。それを伝えようとして、夫に「見たわよ!」とメールしてきたのだ。
橋本は、ほっとした。そして自分があれこれ悩んでいたのが、急にバカバカしくなった。あのときメールを返さなくてよかったと思った。
ふーっとため息をつくと、妻が寝言を言った。
「……ン様」
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