二歳になる犬のクウは、お座りをしない。エサをもらうときはするが、それ以外は誰が命令してもしたことがない。ところが最近、何も言わなくてもお座りをする。父が亡くなった翌月からだったように思う。
クウは、生前の父がよく座っていたソファの前でお座りをする。それを見て母が反応した。高校から帰った弟に話しかける。
「お父さんが帰ってきてるのね」
犬はグループの長に従うという。だから父のソファの前でお座りをすると母は思ったらしい。幽霊など信じない私だが、母の気持ちが安らぐならと「そうね」と微笑んだ。父亡き後、母の体調が思わしくない。私も弟も気分が重い。父のいない暮らしに慣れなければと思いながらも、悶々たる毎日を送っていた。
ある日、幼馴染みのマユミが遊びに来てくれた。家族もみんな、彼女をよく知っている。マユミはソファの前でお座りをするクウに近づいた。そしてこう言ったのである。
「いる……」
途端に母が満足そうな顔になる。
「マユミちゃんって、見える人だったのね。主人がそこにいるの?」
母の言葉を聞きながらマユミがゆっくりと振り返る。そして唇を振るわせながらこう言った。
「おじさんじゃないです。それに人の姿をしていない……」
「えっ!」
母の動きが止まった。私は全身の毛穴が一気に開いたような感覚に陥った。弟は後ずさりしている。
私は押し殺した声で言った。
「いったい何がいるの」
「肉塊……という表現が正しいかもしれないわ。人間のような形はしているけど、肉のかたまりにしか見えない。これ、まずいわ」
母は涙を浮かべておろおろしている。マユミが続ける。
「あ、もう一つ、肉塊の後ろに何かが……。人だわ。おじさん……」
「えっ? 父さんがいるの?」
「そう。おじさんが、肉塊を強くつかんでいる。ああ、何か言おうと口を動かしている」
マユミは父のソファを凝視している。そこにおぞましい肉塊の化け物と、それを押さえる父がいるという。なんということだ。
マユミが言う。
「わ、分かったわ。おじさんはこう言ってる。『早く引っ越せ』……」
その日の夕方に同じ市内でアパートを見つけ、私たち三人は翌日、引っ越した。引っ越しが終わると、体が軽くなっているのを感じた。
日曜日にマユミが訪ねてくれた。犬のクウは、父のソファの前で寝転がっている。クウに近づき、マユミはソファに向かって言った。
「おじさんも来られたんですね」
マユミによれば、あの肉塊はもういないという。今は父だけ。母はそれを聞いて涙を流して喜んだ。
私は、マユミの言葉を聞いて頭に浮かんだ疑問を口にした。
「父がそこにいるのなら、なぜクウはお座りをしないの?」
マユミは小さく笑い、言った。
「クウは食べ物が目の前にないと、お座りをしないんでしょ。犬はお肉が好きだから……」
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)