漆黒の闇が訪れようとしている。夜は多くの人を恐怖へといざなう。
「また来るのかな」すでに幼児とは言えない少年が、独り言のように言う。
「たぶん来る……。気をつけてよ」少女が言った。少年より少し年上。大人の女性への道のりをそろそろ歩き出すころだろうか。
姉と弟は、共に働いている両親の帰りを待っている。冬の夜は早い。二人だけの時間を過ごすうちに、あたりは真っ暗になっていた。
羽ばたきの音が聞こえた。鷹のように雄大な羽ばたきではなく、小さな羽を動かす音。次第に近づいてくるその音に、姉と弟は戦慄した。
「来た!」少年が言う。ヤツの姿は見えない。少女は黙ってあたりを見る。
ヤツは暗闇と共にやってくる。羽音を立て、どこからともなくやってくる。そしてまるで悪魔が変身するかのように、突然、目の前に姿を見せるのだ。窓も入り口も、しっかり鍵がかかっているというのに。
「十字架とニンニクを用意しておいた方がよかったかな」少年が自嘲めいた口調で言った。そんなものは、全く役に立たないことを知っているからだ。
「ビデオの見過ぎよ」姉がたしなめる。
羽音がやんだ。近くにいることは分かっている。透明人間ではないのに、なぜか見えない。しかしヤツは突然、姿を現し、その、目を覆いたくなるような口を人の体に食い込ませるのだ。
「出た!」
弟の言葉の先で、黒い影が、ススっと動くのが見えた。ヤツだ。
姉は、弟をかばうように自分の背後に行かせる。そして、ささやきにも似た声で言った。
「あれを持ってきて」
姉は知っているのだ。ヤツにも弱点があることを。昼間、調べておいた。それさえ使えば、十字架やニンニクの何倍もの効力を発揮するはずだ。
言われた弟が静かに動く。ヤツに気取られてはいけない。静かに、そっと、少しずつ動く。
突然、ヤツが襲いかかってきた。姉の首筋めがけて、醜い口を突き出す。なんとか、かわした姉が大声を出す。
「なにしてるの。早くあれを!」
「ご、ごめん。すぐに持ってくるよ」
ヤツに見られて動きが遅くなっていた弟が叫ぶ。
数秒後、弟の手に鈍く光る金属製の物体があった。
「ねえちゃん、ほら」
姉に渡す。すると彼女は、自信満々の笑みを浮かべた。
「おーほほほほっ。これで、あなたもおしまいね。覚悟なさい!」
言うが早いか、右手に持った金属体の上部を力強く押す。
シュー! 鋭い音とともに何かが吹き出す。ヤツの体にかかりそうになるが、敵もさるもの。巧妙に逃げる。
「ねえちゃん、こっちだ。こっちに逃げたよ。早く!」
「分かってるわよ。私だって一生懸命なんだから。でもこのスプレー缶、結構、重いのよ」
「あ、こっちに来た。こいつめー!」パチンと弟が手を叩く。「ダメだ、逃げられた。姉ちゃん、早く殺虫剤で」
冬の蚊は動きが鈍くなっている。しかし兄弟が過ごす部屋は、ことのほか温かく、ヤツは元気いっぱいで血を求めて飛び回っていたのだった。
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