恐怖のスポットは、至る所にある。某トンネルでは、親子の霊が出没するといわれ、また海にかかるある橋を渡ると、海面から無数の手が現れるという。多くは「友達の友達が体験した」とか「父親の会社の人の家族が遭遇した」など、恐怖を語る本人ではない体験者の話である場合が多く、ある意味、ウワサ話の延長のようなところがある。しかし、本当の恐怖スポットは、確実に実在するのである。
念願の会社に入ることができた橋本ヨシエは、同時に一人暮らしを楽しんでいた。会社が出身地から遠いため、実家から通うことはできない。それはヨシエにとって、うれしいオマケでもあった。
ただ一つ、困ったことがあった。それは、行き慣れたスイミングクラブに通うことができなくなったことだ。子供のころから水泳が好きで、ずっと続けてきたヨシエ。水泳だけは続けたいと思っていた。そんな矢先、会社の同僚から、新しいスイミングクラブの話を聞いた。
「ほら、消防署の隣に大きな建物があるでしょ。あそこに屋内プールができたのよ。実は私も会員なの」
同僚のマリコが言う。ヨシエが答える。
「じゃあ、さっそく行ってみようかな」
するとマリコは、少し声を低めてこう言った。
「きれいな施設だけど、ただね、ちょっとね……」
「何? 何かあるの?」
「実は『出る』ってウワサなのよ」
「出るって、も、もしかして……」
「そういうウワサよ。タオルを持ってシャワー室に五分以上いると、それが出るらしいわ」
古い施設なら、そんな怪談があっても不思議ではない。しかしその施設は、最近できたばかりだという。建てた土地に問題があったのだろうか。
しかしまあ、ウワサはウワサ。本当に出るかどうかも分からない。それに、マリコの話では、普通にシャワーを使っているだけなら大丈夫とのこと。それなら問題ない。最近、泳いでいないヨシエは、欲求不満ぎみだ。スイミングクラブへ行ってみることにした。
土曜日。クラブは、そこそこにぎわっていた。怪談があるクラブとは思えない。マリコと一緒に来たヨシエは、手続きをすませ、ロッカールームで着替えた。そしてざっとシャワーを浴び、軽く体操をすると、プールに入った。
久しぶりのスイミングは気持ちよかった。マリコもなかなかの腕前で、二人で数百メートルを泳いだ。
「そろそろ帰らない?」マリコが言った。
その言葉をきっかけに、二人はプールからあがる。プールサイドで目を洗い、シャワールームへ。
泳ぐ前のシャワーは、ざっと体の汚れを落とすためなので、それほど時間がかからない。しかし水泳後は、プールの塩素をしっかり落としたいという思いもあり、意外に時間をかけてしまう。その日のヨシエも、念入りにシャワーを浴びていた。
隣でマリコがルームから出る音がした。そろそろ自分も出ようかと思っていたとき、背後に何かの気配を感じた。シャワールームは個室風で、通路との間はビニールのカーテンで仕切られているだけ。そのカーテンの向こうに気配があった。
シャワーの順番待ちの人だろうか。それならマリコの使っていたルームが空いているはず。なのにその気配は、ヨシエのルームの前にたたずんでいる。
気味が悪くなった。いったいだれだ? 何がそこにいるのか……。
そのときヨシエは、自分が意外に長くシャワールームにいたことに気付いた。そして恐ろしいことにも気付いてしまった。そう、タオルを持ち込んでいるのだ。
「ええっ? やめてよ。あのウワサ、本当だったの?」
ヨシエが青ざめる。カーテン一枚の向こうに、人間でない何かがいる。そう思うと、恐怖が頂点に達した。
そのとき、カーテンが揺れた。外の何かがカーテンを開けようとしている。しかし開けられることはなかった。それがヨシエをいっそう怖がらせた。どうしよう、このままシャワールームに閉じこめられるのだろうかという恐怖も加わってしまった。
声がした。低く、濁った声。カーテンの向こうから聞こえてくる。年老いた女の声に聞こえた。何やらぶつぶつ言っている。
次の瞬間、カーテンが勢いよく開かれた。
そして声が言った。
「あなた、規約を読まなかったの? シャワーは五分以内。ルームにタオルを持ち込んではいけない。目の前のプレートにも書いてあるでしょ!」
そこには、さっき受付でクラブ入会の手続きをしてくれた老女が、怖い顔をして立っていた。
ふと見ると、老女の背後にマリコがいる。マリコはニヤニヤしながら、こっちを見ているだけだった。
※今回の作品は『ffユニオン』掲載のものより長くなっています。上記を短くしたものが掲載されています。
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