「ちょっと、そこのあなた、何か願い事はありませんか?」
会社からの帰宅途中、バスを降りて家路を急ぐ北村健司は、突然声を掛けられて驚いた。振り向くと、黒いスーツに身を包んだ男がいた。切れ長の目に高い鼻。耳がかなり大きい。髪は短めだが、きれいに整えられており、全体としてはニヒルな二枚目だった。ただし、かなり太っていた。
「俺に声を掛けたの、あんた?」
北村が、恐るおそる聞く。
「そんなに驚かないでください」黒服の男は、微笑みながら言った。
「あんた今、願い事がどうとか言ったよね。一体、何のこと?」
「あのー、実は私、悪魔なんです。悪魔は人間の願い事をかなえるんですよ」
「はー?」
北村が、すっとんきょうな声を出す。悪魔だって? ふざけてるのか? しかし黒服の男の眼差しは真剣だ。北村が言う。
「あのね、冗談だったら、ほかでやってよ。俺、家に帰るところなんだから」
「いえいえ、冗談ではありません。信じてもらえないなら、ほら」
言いながら、悪魔と名乗る男が、右手を前に出した。かすかな煙が立ち上ったかと思うと、次の瞬間、彼の手の中に一万円札の束が乗った。
北村は驚いた。百万円はあるだろう札束に、目が釘付けだ。
それを見た悪魔は、瞬時に札束を消し去った。後には、落胆した北村の顔だけが残った。
「どうやったんだ?」北村が聞く。「それ、手品かい?」
「そうではありません。れっきとした魔術です。どうです? 私に願い事を言ってみる気になりましたか?」
「うーん、そうだなあ」腕組みをする北村。そして思い出したように言う。「そういえば、悪魔に願い事をかなえてもらうと、自分の魂を取られると聞いたぞ。あんたが本当の悪魔なら、俺の魂を狙ってるんじゃないのかい?」
「いえいえ、めっそうもない。私はそんなことはしません。まあ、確かに悪魔の本業は、人間の魂をいただくことですが、でもね、私にはいらないんです」
「いらない? なんで?」
「それは、その…。まあいいじゃないですか。あなたにとって、こんなチャンスはめったにないですよ。普通の悪魔なら、確実に魂を奪っていきますけど、私は持っていかないんだから」
「でもさ、あんたが本当の悪魔かどうか分からないのと同じように、もし悪魔だったら、本当に魂を持っていかないかどうかも分かんないじゃない」
「うーん、なかなか鋭いところを突いてきますね。それじゃあ、こうしましょう。本来、悪魔は、三つ願いを聞くんです。三つ目をかなえたときに魂をもらう。その瞬間、人間が悪魔の系統になるんですけど、今回は一つだけ聞くことにしましょう。ただ、できるだけ大きな願い事だと助かるんですが…。それで、もし私が魂を奪うつもりでも、あと二つの願いをかなえなければ、それはできない。あなたは一つしか願いを言わなければいい」
「なるほどね。でも、もし、三つの願いをかなえてから魂を取るというのがウソだったら? あんたが悪魔なら、それくらいのウソは平気でつくんじゃないの?」
「うーん。ああ言えばこう言う…」
結局、悪魔は、北村から願いを聞くことはできなかった。人間の世界には、悪魔以上にずる賢いヤツがいて、平気で他人をだますらしい。だから人間も用心深くなっているのだ。それに、北村が最後に言った言葉が、悪魔の心に突き刺さった。
「あんたの言うことを全部信じるとしても、何で俺の願いを聞いてくれるわけ? 魂も取らないのにさあ。そんなうまい話、あるわけないじゃないか」
確かにその通りだ。うまい話には裏があると、この人間はちゃんと分かっている。悪魔にとってやりにくい時代になったものだ。今回は本当に、ただ願いをかなえたいだけなのに。
先週、悪魔は、デーモン病院の悪魔ドックで、担当の先生から言われたのだった。
「悪魔Aさん。ちょっと魂脂肪が多すぎますね。あなたは成績優秀だから、たくさんの魂を集めたようですが、そのために太りすぎてしまった。これじゃあ、成悪魔病予備軍だ。早速ダイエットを始めないと。ああ、ただし少々の運動じゃダメですよ。あなたの魂太りは尋常じゃない。まあ効果があるとしたら、人間の願い事をたくさんかなえてやることですね。それもできるだけ大きな願い事をね。このままだと、心臓に負担がかかるし、ほかもまずいことに…」
悪魔の世界にも、飽食の時代が訪れていたのだった。
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