初めて行ったパブ《ボストン亭》のボックス席で、隣にいた女が言った。会社の同僚に連れられてここへ来た僕。こういうのを合コンっていうのかと、目を白黒させている最中だった。
もちろん彼女とは初対面だ。
「私、奈美子っていうの。ねえ、どう? 信じる?」
初対面にしては、なれなれしいが、まあいい。
「奈美子――さんです? 僕は悟。リッシンベンに『われ』と書いて、さとると読むんです」
丁寧に説明したつもりだったが、奈美子の目は点になっていた。こんな字も知らないのかとあきれたが、まあいい。
彼女が言う。
「漢字の勉強は、またにしましょうね。それより前世。どう? 信じる?」
「前世って、自分が昔、ほかの人だったっていうアレ? どうかなあ。そういうことがあっても不思議じゃないとは思うけど」
「でしょ。でさあ、実は私、前世で魔法使いだったのよ」
アホらしくなってきた。男をからかうのが趣味なのかとも思った。僕の表情を見て、奈美子が言う。
「信じてないわね。それどころか、私のこと、バカだと思ってるでしょ。悟って字も知らないのかとも思ったし」
「いや、そんなことは……」
「隠したってダメよ。あなたが思ってることは、全部顔に出てるわ。それは私が魔法使いじゃなくても分かることだけど」
「君が魔法使い? 前世で魔法使いだったんじゃないの?」
「なんにも知らないのね。前世で魔法使いだったら、現世でも魔法使いなのよ。本人が気づくかどうかは別として」
知らなかった。
「じゃあ、君が魔法使いだとして、何ができるんだい? 願い事をかなえてくれるわけ?」
「もちろんよ。何か言ってみて」
僕は考えた。でもちょっと待てよ。なんだって、初対面の僕の願い事をかなえるんだ? 僕はランプをこすってもいないし、星の入った玉を七つ集めたわけでもない。そんな疑問をぶつけてみた。すると……。
「そんなこと、どうでもいいじゃないの。願い事をかなえてほしくないの?」
「うーん」
僕は黙った。だいたい本当に願い事が、かなうかどうかも疑わしいのに、なんでそんな個人的なことを、見ず知らずの女に言わなくっちゃならないんだ。
「じゃあ私が言ってあげるわ」
僕が黙っているのは、何を願うか迷っていると勘違いしたらしく、奈美子は勝手にしゃべりだした。
「きっとあなたにも、好きな人がいるんでしょ。でもたぶん、まだ相手に気持ちを告白していない。よし、私に任せなさい」
そう言うと奈美子は、ニヤっと笑った。
翌日、昼休みに、洋子から電話がかかった。今夜、会いたいという。ホントは好きでたまらないのに、思いをうち明けられない相手からの電話だ。僕は飛び上がって喜んだ。洋子からの連絡は久しぶりだったし。
会社の仕事を早めに片づけて、洋子が指定した場所に向かう。ホテルのロビーだった。これだけでも期待に胸が鳴る。
洋子がやってきた。座っていたソファから立ち上がり、さわやかにあいさつをしようとした。ところが、僕の口からは、とんでもない言葉が飛び出したのだ。
「お前って最低だな。俺をこんなに待たせて。だいたい前から気に入らなかったんだ。いったい何様だと思ってんだ?」
当然のことだが、洋子の顔が引きつった。悲しそうな顔になったかと思うと、すぐに怒りに満ちた顔になった。そして何も言わずに出口に向かってしまった。
僕は「ちょっと待ってよ。今のは僕が言おうと思ったことじゃないんだ」と言いたかった。しかし口を出たのは「二度と顔を見せるなよ!」だった。
僕はわけが分からず、ただ呆然としていた。もちろん少し離れた場所に奈美子が座っていたなんて気づきもしない。
奈美子は独り言を口にした。
「あなたは、前世で私を振ったのよ。だからあなたは、幸せになってはいけないの。こんなことに魔法を使いたくはなかったけど、仕方がないわ。覚悟しなさい。これからもずっと、あなたの恋の邪魔をし続けてあげるわ。それにしても、合コンで偶然会えるとは、思ってもみなかった。これからが楽しみ……」
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