「ごめんなさい。私、あなたとお付き合いすることはできません。どうか忘れてください」
留守電を再生すると、突然、女の声が飛び出してきた。声は続く。
「別にあなたが嫌いだって言ってるわけじゃないんです。ただ、そういう気にはなれません。ごめんなさい。許してください。坂口真理子を許してください」
メッセージが終わった。渡辺良次は面食らっていた。
「なんだ、この留守電は」
良次がうろたえるのは無理もない。彼は坂口真理子に「付き合ってください」などと言った覚えはないのだから。それどころか、女を口説くなんて、一度もしたことはないし、やろうと思ったこともない。だから好きな子ができても、いつも遠くから見ているだけなのだ。
スピーカーから音が出なくなった電話を見て、良次がため息をつく。
「それにしても、そそっかしいヤツだ。こんな大事なことで、電話をかける相手を間違えるなんて」
坂口真理子は、良次と同じ課で働いている。とびきりの美人ではないが、無造作に髪を束ねるしぐさがかわいく、良次にはずっと気になる存在だった。もちろん自分から声を掛けたことなど一度もないが。
電話は、その真理子だ。声に聞き覚えがある。間違いない。会話をしていなくても、絶対に聞き間違えない自信があった。
「さて、どうしようか…」
真理子は、自分が間違い電話をしたとは思っていないだろう。良次の電話機は買ったときのままなので、留守電の応答は機械的にしゃべる女性の声だ。もちろんこちらの名前など入っていない。だから真理子は間違いに気づかなかったのだろう。
彼女は留守電にメッセージを入れたことで、事が終わったと思っているはずだ。しかし本当に伝えたい相手には伝わっていない。つまりあのメッセージは、なんの意味もないということだ。それを彼女に伝えなければならない。でも…。良次は躊躇した。ストレートに「留守電、入れ間違いだぜ」と言っていいのだろうか。そんなことをしたら、真理子が傷つきはしないだろうか。
さんざん悩んだ揚げ句、良次は真理子に電話することにした。
社員名簿を出して番号をプッシュする。一人暮らしの真理子がすぐに出た。
「あの、俺、同じ課の渡辺。あの、ちょっといい?」
「渡辺さん? ああ、職場ではいつもどうも。あんまりお話ししたことないですよね」
「うん、まあ。でさあ、君、その~」良次の言葉が続かない。
「どうしたんですか? 何か用事があったんじゃあ?」
「うん、そうなんだけど」思い切って言うことにする。「君、最近、嫌なことがあったんじゃない? 変な男につきまとわれるとか」
「えっ?」
真理子が詰まった。受話器の中に沈黙が広がる。良次は困った。こういうときに、どう対応したらいいのか分からなかったからだ。彼は女性との会話に、あまりに慣れていなかった。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「いや、なんとなくそんな気がして」
「誰かに聞いたんです? 渡辺さんって、やさしいんですね」
「そういうことじゃないんだけど…」
そして二人は、ポツリポツリと世間話を始めた。互いのことも少し話した。良次は、これまで持ち続けていた淡い思いが、熱くなるのを感じていた。真理子はやっぱり自分の思っていた通りの子だ。自分の目に自信を持った。良次が真理子に誘いの言葉をかけるのまでには、さほど時間がかからなかった。
次の日曜日に会う約束をして電話を切る。通話が切れたあとも、真理子は電話の上に手を乗せ続けていた。大きな感動が彼女を包み込んでいる。そして言った。
「やったわ! これで何もかもうまくいく。ああでもしないと渡辺さん、絶対に私に声をかけてくれなかっただろうから。彼が私に好意をもってくれてるって噂を信じてよかったわ。留守番電話のおかげ。だって私の方から言い寄ることなんか、恥ずかしくて絶対できないんだもん」
作戦成功に浮き立つ坂口真理子だった。
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