恐怖は、いつやってくるか分からない。自分には全く関係ないと思っていても、映画の中だけのことだと思っていても、それは突然やってくるのだ。
牧村美春がいつものように会社に着いたとき、経理部の自分の机の上に見覚えのないものが置かれていることに気づいた。
チリ一つない机の上に、一本の果物ナイフが置かれていた。先がとがり、刃が薄い。どんな果肉にも容易に食い込んでいきそうな刃は、銀色に輝いている。果物だけでなく、肉片でも簡単に切り刻むことができそうだ。
「どうしてこんなところに……」
言いながら美春は果物ナイフの柄を持ち上げた。鈍く光る刃の手元に、何やら文字が刻まれていた。しかし美春は、そんなことに注意を払いはしなかった。
「給湯室に置いておこう」
きっと誰かがナイフを持ち出して、しまい忘れたのだろう。たまたま美春の机の上に置き忘れただけなのだ。そう自分に言い聞かせると、美春は給湯室に向かった。
午前中は、いつものように終わった。昼食は、いつもの店に出かけることにした。日替わりランチが安くておいしいのだ。
一時少し前に事務所に戻る。自分の机の前まで来る。美春はそこで恐ろしい光景を見た。またあの果物ナイフが机の上に置かれているではないか。
「さっき給湯室に戻しておいたのに」
信じられなかった。ナイフが自分で戻ってきたような錯覚に陥った。もちろん、そんなはずはない。となると、誰かがここに置いたのだ。給湯室に戻したナイフをわざわざここへ……。
背中がゾクっとした。はっとして後ろを振り向いた。誰かがいたわけではない。
誰かがナイフを戻した。これはどういう意味なのか。朝、感じた恐怖とは比べものにならない恐怖を感じた。美春はハンドバッグからハンカチを出して、それでくるむようにしながらナイフの柄を持った。そんなことをしても、どうにもならないと分かっている。それでも気味の悪いナイフに、直接手を触れる気にはなれなかったのだ。
再度、給湯室にナイフを戻した美春は、そこで水道を全開にし、ハンカチをごしごし洗った。
席に戻った美春は、ナイフのことを忘れようとした。仕事に没頭しよう、そうすれば忘れられる。しかし、そう考えれば考えるほど、ナイフの鈍い光が脳裏に浮かんでくる。どんなものでも容易に切り刻んでしまいそうな、あの刃が……。
二時を過ぎたころ、課長からお呼びがかかった。
「牧村君、ちょっと銀行へ行ってくれたまえ」
美春は即座に立ち上がる。課長の用件を聞き、出かける支度をする。銀行から書類をもらってくるだけの簡単な用事だが、今の美春にはうれしかった。体を動かしていた方が、嫌なことを忘れられると思ったからだ。
銀行では意外に手間取った。駐車場は満車でかなり待たなければならなかったし、窓口はバーゲンセールの初日のように込み合っていた。書類をもらうという簡単な用事なのに、美春が会社に戻ったときは三時を過ぎていた。みんなが午後のお茶を楽しんでいた。
課長に書類を渡すと、美春は自分の席へ戻る。自分もお茶にしようと思いながら。しかしその思いは、一瞬にしてどこかへ飛んでいってしまった。
まただ。またあのナイフが机の上にあるではないか。美春は震え上がった。これはもう、作為的なものとしか考えられない。誰かの嫌がらせなのだ。それも悪質な。芸能人の熱烈なファンが、その反動でカミソリの刃を郵送するような……。
誰かに恨まれている。それもその誰かは美春を「殺したい」と思っているらしい。ナイフが机の上に置かれているということは、それを暗示しているのだ。そうとしか考えようがない。
美春は呆然となりながら、机の上で鈍く光り続けるナイフを、ただ見つめるだけだった。
そのころ給湯室で二人の女子職員が立ち話をしていた。髪の長い方が言う。
「ねえ、変なのよ。私、確かに返したと思うんだけど、また戻っていたの。どうしてかな」
それから二人はいくらかの言葉を交わした。最後に髪が短くメガネをかけた子が言った。
「それはあなたの勘違いよ。確かにあのナイフには『MIHARU』って彫ってあるけど、あれはナイフを作った人の名前よ。美春ちゃんのことじゃないわ」
「えっ? あのナイフは美春ちゃんのじゃないの?」
恐怖はどこからやってくるか分からない……。
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