社員が全員帰った事務所で、社長の松下はコンピュータに向かっていた。機械が苦手な松下だが、このままコンピュータから逃げ続けていると自分だけが取り残されそうだ。「ちょっとぐらい触っても、壊れやしないだろう」松下は独り言を言いながらスイッチを入れた。
翌日、いつもと変わらない朝が始まった。紅一点の牧村美智子は、今日は一番に出社し、てきぱきと業務を片づけていた。
六人いる男性社員の一人の吉田が、コンピュータに近づく。こいつは、経理用のものとは別で、社員が自由に使えるようになっている。
吉田がコンピュータの机につこうとすると、急にガタンと大きな音がした。牧村美智子が、机から湯飲みと急須を落としたのだ。吉田が驚いて振り向く。見ると美智子が悲しそうな顔でこっちを見ている。一番若い、それも女子社員にこんな顔をされては、放っておけない。吉田はコンピュータに近づくのをやめて、美智子が壊したものの片づけを手伝いだした。
別の社員がコンピュータに近づいた。即座に美智子が言う。
「前田さん、社長がお呼びです」
言われた前田は「あ、そう」と言って社長室へ向かった。
また別の社員がコンピュータに近づいた。すぐに美智子が声をかける。「石川さん、昨日頼まれた書類の件ですが……」
社長室へ行った前田が戻ってきた。自分の机へつくと、隣席の同僚に耳打ちした。
「変なんだ。社長は呼んでいないっていうんだ」
そこへ、社長がやってきた。社員の声をちゃんと聞いてくれると評判の社長だった。ただ、コンピュータ音痴なのはいただけないが……。
「久保田君、昨日の商談の件なんだが」
松下社長が社員に声をかける。久保田は目を白黒させた。昨日は商談などなかったからだ。
「社長、ボクは昨日、商談には行っていませんが」
「あ? そうだったか? 間違えたかな? まあいいか」
美智子だけでなく、社長も変だ。そのとき、吉田が、コンピュータに近づいた。さっきの騒ぎで調べられなかったことを調べようとしたのだ。すると社長が、ひときわ大きな声を出した。
「よ、吉田君。君だったよな、昨日商談をしたのは」
「いえ、私ではありませんが」
突然大きな声を出されて、吉田が驚いて立ち止まる。結局コンピュータには近づけなかった。
お昼休み。牧村美智子は、お手製の弁当を食べていた。いつもは一人で事務所にいることが多いが、今日は社長もいた。社長は昼食をとるでもなく、ぶらぶらしている。
弁当を終えた美智子が立ち上がり、部屋から出ていった。それを見て社長の松下がコンピュータに近づく。松下はこのときを待っていたようだ。
「それにしても困ったもんだ」
独り言を口にしながら、コンピュータのスイッチを入れた。同時に椅子に腰を下ろす。そのときガシャンと大きな音がした。
音に驚いた美智子が、あわてて部屋へ戻ってくる。見ると、壊れた椅子と一緒に社長が床に転がっている。美智子は「まずい」と思った。せっかく午前中をうまく切り抜けたのに……。即座に言い訳をする。
「すみません。今朝、椅子を壊したことを早く言おうとは思ってたんです。でも……」
松下には美智子の言葉が理解できなかった。ひたすらコンピュータの画面に目をやる。昨夜と同じで、うまく立ち上がらない。しまった。午前中は何とか切り抜けたのに、こんなところで美智子君に見られるとは……。即座に言い訳を始める。
「ちょっといじってみただけなんだ。壊れるとは思わなかった。私が壊したとなると、またみんなにバカにされそうで……」
社長が言い終わったとき、二人の目が合った。自分が言い訳をし終えると、急に相手のことが気にかかる。社長はようやく美智子の言った内容を理解した。
「それじゃあ君は……」
「それじゃあ社長は……」
互いに驚きを含んだ目で見つめ合う。数秒後、二人が同時に吹き出した。社長が言う。
「このことは、ほかのみんなにはナイショだぞ」
「もちろんです。私のこともね」美智子が言った。
その日の夜、社員が帰宅してから、社長は新しい椅子を注文した。美智子は残業という名目で、コンピュータの復旧にかかった。
何事もなかったかのように、一日は過ぎていったのだった。
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