家の前にその男がいるのに気づいたのは、夜八時を過ぎたころだった。見つけたのは林田家の小学校五年生になる長男だ。
「父さん、変な人がいるよ」
夕食も済ませ、ゆっくりしていた父親の健二に、長男の大輔が言う。父が窓からそっと外を見ると、確かにいた。生け垣の向こうに三十歳代の男がじっと立っているのだ。
この辺りは振興住宅地。まだまだ家の建っていない土地も多い。近くに駅やコンビニがあるわけでもないし、待ち合わせの目印になるようなものがあるわけでもない。つまり林田家の前に立っているのは、林田家に用があるからだと思うのが自然なのだ。しかし用があるなら玄関でドアチャイムをならすはず。男はただ、生け垣の向こうで立っているだけなのだ。これは怪しい。
息子と父親が外をうかがっているのを見て、母親の利恵子がやってきた。同じように外を見て「なんだか気味が悪いわ」と言った。同じようにやってきた幼稚園児の長女が、母親の口まねをして「気味が悪いわ」と言った。
父親は、いっそ外へ出て、わが家に用事があるのかどうか聞いてみようかと思った。相手は一人だし、それほど怖そうな人物ではなさそうだ。もしのぞき見をしようなんて魂胆なら、おっぱらってやろうと思った。だが、よくよく見ると妙な雰囲気なのだ。表情はおどおどしていて、周りをきょろきょろ見回している。ちょっと「あぶなそう」に見える。声をかけない方がいいような気もした。近づいたら突然ナイフを振りかざすような通り魔だったら怖い。
それから一時間がたった。男はさっきと同じ位置に立ち続けている。おどおどしている様子は変わらない。少し焦っているようにも見える。
「警察に電話しましょうか」
母親の利恵子が言った。突然強盗になられても困るし、このままでは落ち着いて眠ることもできない。
しかし夫は反対した。
「もしだれかと待ち合わせをしているのなら、申し訳ないじゃないか。警察だって来た以上はいろいろ質問しなくっちゃならないだろうし。両方に迷惑がかかるかもしれないぞ」
「あなた、本当にあそこで待ち合わせをしていると思うの?」
「いや、それは……」
こんなところで待ち合わせるヤツなんていない。となるとなんだろう。もしかしたら刑事の張り込みだろうか。それにしては表情が情けない。
気味が悪いと言いながら、林田家は何もしなかった。夜はどんどん更けていく。夫の健二と妻は、外の男のことを忘れようとした。ただし窓やドアには、しっかりカギをかけたが。
子どもたちが寝静まり、深夜のニュース番組の時間帯。男はまだいる。子どもたちに万が一のことがあったら……。そう思うと、とても眠ることなどできなかった。
ニュース番組が終わったころ、外で妙な音がした。金属が触れ合うようなギジギジという音。続いてガシャンと何かが、はずれる音。その後は、ギーギーと何かを引きずる音だ。健二は、ハッとして立ち上がり、玄関へ向かった。サンダルをつっかけると、ドアのカギを開けて外へ飛び出す。何か、とんでもないことが起きた予感があった。
そして健二は見た。音を出しているものを。同時に、あの不審な男が移動するのを。
男の右足は、側溝の金属のふたにすっぽりと、はまりこんでいた。男はそれを足に付けたまま、ギーギーと音をたてて引きずりながら移動しだしたのだ。
健二は思い出した。自宅の前の側溝のふたが、破損していたことを。男はそうとは知らずに、ここを通りかかったとき、はまりこんでしまったのだ。そのまま何時間もふたと格闘したのだろう。しかしどう頑張っても足が抜けないことを知り、ふたを付けたまま帰ろうとしているのだ。
男は恥ずかしさと焦りに満ちた顔で、側溝の金属ふたを引きずりながら、暗い夜道を一人で進んだ。彼が一歩進むたびに、金属のふたはアスファルトとすれあってギーギーと音をたてる。その音を聞きながら、健二は申し訳ないと思いながらも、こみ上げる笑いを抑えることができなかった。
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