「もし時間を止めることができるとしたら、何をしてみたい?」
クルマの中で俺が聞いた。
運転している幸一は、目頭を軽く押さえながら答えた。
「一体なんの話だ? このクルマを止めてほしいってのか? トイレに行きたいなら行きたいと、はっきり言えよ」
「そうじゃないさ。苛立つなよ」
幸一が苛立っているのが分かっていた。もう4時間も運転しっぱなしなのだ。
クルマを盗もうと言いだしたのは幸一だった。身長は185センチもあるくせに、いつもおどおどしているヤツだ。そのくせ、自分に度胸がないことを人に知られるのをいつも恐れていた。だからときどき、突拍子もないことをやりたがる。クルマを盗んだのも、そのせいだ。
酔っぱらっていたこともある。気が大きくなり、幸一は道路に止められていたベンツに乗り込んでしまった。不用心にもキーが付けっぱなしだ。当然のことのように、幸一がイグニッション・キーを回す。ま、俺も面白がって助手席に乗ったんだから、同罪と言えば同罪だが。
運転しているうちに、酔いが冷めてくる。ふだんなら眠くなるところだが、状況を冷静に受けとめられるくらい正気になったころ、俺たちは焦りだした。クルマはベンツだ。盗むクルマを間違えた……そんな気がした。
「で、なんだって? 時間がどうのって言ってたよな」
幸一が不機嫌な声で言った。
「いいんだ。気にするな」
俺がぶっきらぼうに答えた。すると予想通り、幸一が、かみついてきた。
「なんだよお。言い出しておいて、やめるなよ。気になるじゃねえか。えっ? これ以上、俺を苛立たせるなよ。どうなっても知らねえからな」
幸一を苛立たせても、大したことにはならない。クルマを盗む以上のことにはならないと、俺は確信していた。
「それじゃあ言うけどな」
「ちゃんと言いやがれ」
幸一の安心したような口調を聞きながら、俺は鼻で笑った。そして言った。
「もし時間を止めることができるなら、どうしたい?」
「そんなこと、できっこないじゃないか」
「だから、もしさ。もしできたら?」
「うーん……」
幸一が考える目になる。
突然、目の前に10トントラックのケツが近づいてきた。トラックの減速に気付かない幸一が、ブレーキを踏まないせいだ。
「お、おい! 前!」
「えっ?」
幸一がこちらを見る。そうじゃないって。前だよ、前。俺の見開かれた目を見て、とっさに幸一がブレーキを踏む。トラックのケツは、フロントグラスにくっつくように見えていた。完全にぶつかったような気がしたが、なんとか、ぶつからずにすんだ。
「あぶねーなー」
「お前が変なこと言うからだろーが」
幸一が、ブーたれた。こいつはすぐに人のせいにする。
「で、なんだったっけ?」
クルマが走り出すと、幸一が聞いてきた。
「だからー」俺はもう、どうでもよかった。でも幸一が興味を示している。しょうがない。つきあってやろう。
「だから、時間だよ。時間を止められたとしたら、何をしてみたい?」
「もし止められるもんなら……」幸一は考える目になる。俺は気が気ではなかったが、前方にはトラックも何もいなかった。
「そうだなあ、まずは女風呂でものぞくか」
「なんだよ、それ」
「だって時間が止まってるんだろ。だったらやりたい放題じゃないか。それならまず女風呂だよな」
「お前ねえ、発想が貧困なんだよ。もうちょっと、いいこと考えられんのか?」
「何言ってんだ。これってかなり、いいことじゃないか」
「そうかあ?」
「自分以外の時間が止まるんだろ?」
「そうさ」
「スーパージェッターみたいだな」
「なんだ、それ?」
「知らなきゃいいさ」
「ああ」
つまらない会話だった。時間を止められる話なんか、持ち出すんじゃなかった。
それにしても、どうして「時間を止められるとしたら」なんてことを考えだしたんだろう。そんなSFじみたことは、これまで考えたこともなかった。このクルマに乗ったら、なぜだかそんな気分になった。てことは、もしかしたら……。
「まさかね」
俺は独り言を口にした。幸一が聞いていた。
「何が『まさかね』なんだよ」
「いや、いいんだ」
「なんだよお。気になるじゃねえか」
「そうか?」
「そうさ」
「そうか」
「そうだ」
しょうがない。話してやろう。幸一は、自分が孤立するのをいつも恐れている。だからなんでも聞きたがる。
「いいか、よく聞けよ」俺が言う。「俺は今まで『時間を止められたら』なんてことは、一度も考えたことがない。ところがどうだ。このおベンツ様に乗ったとたん、考えるようになったんだ。変だと思わんか?」
「なんで変なんだ?」
「頭の悪いヤツだな」
「悪かったな。国語の通信簿はいつも『1』だったんだ。図工は良かったんだぜ」
「んなことはどうでもいい。いいか。このクルマに乗ったとたんに、時間を止めるってことに興味を持った。てことは、このクルマに、時間を止める力があるってことじゃないのかってことさ」
「何言ってんだよ。そんなバカな。それにクルマに乗ったとたんじゃなくて、クルマを盗んでから4時間もたってからじゃねえか。そんなの屁理屈だぜ」
国語が「1」にしては、理解が早い。
「そうかもしれんが、どうせ俺たちは、このまま逃げるしかないんだ。だったら小さな可能性ってヤツに懸けてみるのもいいんじゃないのか?」
「まあな。お遊びなら付き合ってもいいぜ」
「だったら……」
俺はグローボックスを開けた。そこだけ薄暗い電灯がついた。中には書類らしいものがある。車検証とかそんな類のものだろう。両手でさばくってみる。書類の下に、クリアブックのようなものがあった。透明の袋がブック状になったヤツだ。ここに紙を入れれば、取り出さずに読める。
「もしかして」
俺は期待に胸を躍らせながら、クリアブックを取り出した。表紙には何も書いてない。表紙をめくると初めの透明袋に入った紙が見えた。
――時間停止法。
確かにそう書かれていた。
「マジかよ」
俺の独り言だ。いつものように幸一が突っ込みを入れる。
「な、なんだよ。どうしたんだ? 教えろよ」
「まあ、待て。ちょっと読んでみるから」
幸一の好奇心を左の頬に感じながら、俺は次のページを読んだ。
「おい、幸一。コイツは本物だぜ」
「なにが」
「このクルマは、タダのクルマじゃない。ホントに時間を止められるクルマらしい」
「えっ? マジ?」
「マジ」
幸一が青ざめた。そんな大それたものを盗んでしまったことへの後悔が、表情にありありと浮かんでいる。
「ど、どうするんだよお」
「泣くんじゃない」
幸一とは違って、俺は楽しくなっていた。コイツは使える。コイツさえあれば、なんでもできる。そこら中のお宝も盗み放題だ。幸一には、女風呂でものぞかせておけばいい。俺はその間に、銀行へひとっぱしりする。金なんて、いくらでも、どうにでもなる。こりゃあ、ついてる。
しかし幸一は心配げだ。
「なあ、やっぱり返した方がいいじゃねえのか? 盗まれた人は、きっと困ってるぜ」
「今さら何言ってんだよお。盗んだのはお前だろーが」
「そりゃそうだけど、あれは酒の上のことで、ま、黙って返しておけば分からんって。もうすぐ夜が明けるから、朝になる前に返してだな」
「何言ってる! あれから4時間以上走ってるんだぞ。今から盗んだ場所へ戻るなら、4時間かかるってことだ。てことは、真っ昼間じゃねえか。そんなところでクルマを戻したら、すぐにつかまるぞ。お前、算数も苦手だな」
「悪かったな。やっぱり『1』だったよ」
「とにかく俺に任せておけって。悪いようにはせんよ」
俺は口の片方だけで笑って見せた。幸一が、どんどん情けない顔になっていく。でもいいさ。これで金がたんまり入れば、きっとヤツも元気になる。そんなもんさ。
さっそく俺は、クリアブックに入った「マニュアル」を読みだした。どうやって時間を止められるのか、それを知らなきゃ、なんにもできない。
「なになに、まずはクルマに乗る。でもって、イグニッション・キーを回すだと? なんだこれ。クルマの運転と変わんねえじゃないか」
ふざけたマニュアルだ。だがこの先に大事な部分があるのかもしれない。俺は幸一にクルマを止めるように言った。だって動いてるクルマの中じゃあ読みにくいし、第一気持ち悪くなるじゃないか。
次のページを見る。しかしそれ以上のことは書いてなかった。次のページにも、なんだか注意書きのようなものはあるものの、操作方法らしきものは何もない。てことは、イグニッション・キーを回すだけで時間が止められるのか?
俺は不審に思い。クルマのエンジンを止めることにした。もう一度、キーを回すところからやり直せばいい。そうすれば、うまくいくかもしれない。
「おい、幸一、エンジンを切れよ」
「ああ、じゃあ切るぞ」
幸一がエンジンを切った。とたんに、フロントグラスから見える景色が変わった。真っ暗になった。やっぱりやり直さなきゃだめだったんだ。エンジンが止まったのを確認して、俺が言った。
「幸一、もう一度エンジンをかけてみろよ」
しかし幸一は、二度とエンジンをかけることはできなかった。運転席側のドアが外から開けられ、幸一が何者かに引きずり出されてしまったのだ。俺が座る助手席のドアも開いた。誰かが、それも数人の腕が、俺を外へ引きずり出す。
そのとき、助手席に落ちたクリアブックの最後のページが見えた。まだ見ていないページだ。そこには、こう書かれていた。
――エンジン始動とともに、時間が停止します。景色はすべてバーチャル・リアリティーで、時間を気にせずに運転のシミュレーションを体験することができます。
そうか。このクルマは、内部の時間を止めるんだ。だから時間を無視して運転のシミュレーションをすることができる。宇宙飛行など、訓練にとてつもない時間を必要とするもののための機械なんだろう。もしかしたらその試作機かもしれない。クルマの形をしているんだから。
てことは、俺と幸一は、4時間以上もずっとこの場所にいたことになる。いや、違う。俺たちには4時間だけど、実際には1秒だってたってないんだ。クルマの中の時間が止まってるんだから。
こんなすげー機械の持ち主は、普通の人間じゃないよな。でもって、俺と幸一を引きずりだしたヤツらは、もしかしたら……。
俺は、とんでもないクルマを盗んだことに、そのとき気付いた。これなら怖いお兄さんのクルマの方が、まだましってもんだ。たぶん最高機密の機械を盗んで、その上、体験しちまった。こりゃあ、生きて帰れないかもしれない……。
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