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ミニストーリー
幸せの時間
稲垣 優

 時計の針が戻っているような気がする。でも、そんなはずはない。ずっとここにいたし、誰かが時計をいじったなんて考えられない。妻に話すと「気のせいよ」と言った。

 彼女が紅茶をいれるために台所へ立つ。男は、さっきまで読んでいた文庫本に目を落とす。左手の人さし指を入れて閉じておいた本。そのまま開けば、さっきまで読んでいたページに戻ることができるはずだ。

 本の続きを読み出す。男は妙なことに気付いた。そこは、既に読んだ個所だった。数ページ戻っているのだ。20分くらい前に読んだはずだ。

 もう一つ妙なことに気付いた。時計の針が戻ったように思えたのは、ちょうど20分だったのだ。そして、本のページも20分前に読んだ部分に戻っている。これは、偶然の一致だろうか。もう一度、目を上げて、台所にいるはずの妻を見る。しかし彼女は、男の前にいた。

「紅茶は?」

 男が聞くと、妻は怪訝な顔をして言った。

「紅茶が飲みたいの?」

「いや、さっき君が紅茶をいれに台所へ行ったような気がしたんで」

「何言ってるの? 私はずっとここで、これを読んでたわ」

 言いながら、大判の雑誌を持ち上げた。そして「紅茶ね」と言いながら立ち上がり、台所へ向かった。

 台所から戻った妻が言う。

「ねえ、幸せの時間って知ってる?」

「なんだよ、それ」

「人はね、生きているうちに『ああ、幸せだなあ』と心底思える時間を持つことができるの。その時間はね、保存しておくことができるのよ」

「一体、何を言ってるんだい? 時間を保存する? 訳が分かんないよ」

「分かんなくていいのよ。ただ、あなたはそれを知っているわ」

「ますます分かんないなあ。一体何が言いたいんだ?」

「気にしなくていいわ」

 妻はまた、大判の雑誌に目を落とした。男は文庫本に戻る気になれず、妻が差し出したティーカップに手を伸ばす。一口すする。ダージリンだな。少しミルクがほしいと思った。

            *

「先生、心拍数が回復してきました。呼吸も正常に……、正常値に戻りつつあります。先生、これって……」

 看護婦が、白衣をまとった医者を見る。医者は、頭髪の抜け落ちた額に手をやると、ウーンとうなった。しかしそれは、困惑のうなりではなかった。彼は明らかに安堵の表情をしていた。

「し、信じられんが……」

 そう一言口にすると、看護婦に「後を頼む」とジェスチャーで伝え、病室を後にした。

 妻は、男の手をじっと握っていた。医者が立ち去り、看護婦が何やら複雑な機器の操作をしていると、男が目を覚ました。

「お、オレ、どうしてたんだ……」

 天井を見ながら言う。それを見て看護婦が駆け寄る。

「吉川さん、もう大丈夫ですよ。もう大丈夫ですとも」

 看護婦に笑みを返すと、男は自分の手を握っている妻を見て言った。

「オレ、夢を見ていたよ。君と一緒に本を読んでいる夢を」

「だから言ったでしょ。幸せな時間は保存できるの。あなたはその時間をずっと過ごしていたの」

「どういうことだ?」

「いいの、分かんなくても。でも、だから、あなたは……」

 妻が涙声になる。男が言う。

「オレ、君と一緒に本を読んでいて楽しかった。今と同じくらい気分が良かった」

「そうね、よかったわね」

 妻の答えは途切れ途切れて、声にならない。

 しばらくすると、看護婦が病室を後にした。何かあったら、すぐに知らせるようにと言って。

 男がまどろんだ。ほんの少しだけ、まどろんだ。目を覚ますと、目の前に、大判の雑誌を読む妻がいた。男が言う。

「紅茶は?」

「紅茶が飲みたいの?」

 男の返事を聞かずに、妻が台所へ向かう。男は奇妙な気分だった。確かにさっき、妻は紅茶をいれに台所へ向かったはずだったのに。自分の手を見ると、文庫本があった。左手の人さし指が入った部分を開いて読みだす。

 ちょって待て、ここはさっき読んだところだ。そう、20分ほど前に読んでいる。

 時計を見る。奇妙だ。針が20分ほど戻っている。どうしたんだろう……。

             *

 病室で医者は、男の手首を持っていた。しばらくすると、その手をそっとかけ布団の中へ入れる。横たわる男の目をのぞき込む。そして言った。

「ご臨終です」

 傍らで妻は、放心状態だった。涙さえも、声さえも出てこない。それはもしかしたら、夫の表情が、あまりにも安らかだったからかもしれない。

「あなた……」

 やっとの思いで妻が声を出す。そして、言った。

「これからはずっと、幸せの時間の中にいるのね。保存できる時間があってよかったわね」

 医者と看護婦が病室を出る。妻はただ、夫との思い出を頭に浮かべていた。幸せの時間、それは、夫婦にとって共通の時間だった。

「紅茶は?」

 今にも夫が言い出しそうな気がした。そして妻は、病室の傍らに置かれた大判の雑誌を手に取り、夫の亡骸の横で、静かにページを繰りだした。

copyright : Masaru Inagaki(1998.1.29)

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