海外旅行をしている若い恋人同士。メキシコの、とある海岸で日光浴をしているとき、小さなボートを見つけた。二人は、どちらからともなく、乗ろうと言いだした。
ボートを漕ぐのは男。女は水着の上にヨットパーカーを羽織り、右手だけを海に入れている。
「ずいぶん沖まで来ちゃったわね。大丈夫?」女が言う。
「大丈夫さ。また漕いで戻ればいい」真っ黒に日焼けした厚い胸の男が言う。
女は男を頼もしいと思った。頼れる人と信じていた。そんな思いが、こんな言葉を言わせたのかもしれない。
「ねえ、もし今このボートが沈んだら、私たち、どうなっちゃうのかしら。実は私、泳げないのよ」
「大丈夫さ」男は、ほほ笑みながら言った。「こう見えても僕は、学生時代、平泳ぎの選手だったんだ。ボートが沈んだら、君を助けてあげるさ」
「まあ、うれしい。さすがね」
それからしばらくの間、二人とも無言だった。男はゴロリと横になり、灼熱の太陽に全身をさらしている。どれくらい時間がたっただろう。女が突然、海に飛び込んだ。
「た、助けてー」女が海面で両腕を激しく動かす。「お願い、助けて」
女の悲鳴は続く。しかし男は平然とボートに乗ったままだった。そのうち女は、どこからか流れてきた丸太にしがみついた。ボートの男を見ながら言う。
「ひどい人ね。私が溺れたら助けてくれるって言ったじゃないの」
「僕は、ボートが沈んだら助けてあげるって言ったんだ」
「そ、そんな……。私は泳げないのよ。なのに放っておくなんてひどいわ」
「泳げないのにどうして飛び込んだんだい。君は、僕の気持ちを試そうとしたんだね。悪い人だな」
男は、いたずらっぽく笑う。女は反論した。
「違うわ。あなたの気持ちを試すだなんて、そんなひどいことはしない……」
「だったら、どうして自分から飛び込んだんだい?」
「だって……」
「だって、どうしたんだい」
「だって、ボートの中に大きなサソリがいるんですもの。それって、一刺しで人を死なせちゃうっていう毒を持ってるサソリでしょ」
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