「お茶をいれてよ」
彼が言った。
「お茶でいいの?」
私が聞く。
「コーヒーがいいな」
彼が答えた。
今までに、何度となく繰り返された会話。彼は必ずコーヒーを飲むくせに「お茶をいれて」と言う。
学生時代には、喫茶店へ行くことを「お茶する」なんて言っていた。だから、お茶イコール煎茶でないことは分かっているつもり。彼の言う「お茶」が、コーヒーを含んでいることも承知してる。こんなこと、長い間、気にならなかった。
澄んだ焦茶色の液体が、ガラスの容器に満ちていくのを見ながら考える。彼は「コーヒー」が飲みたいのかしら。それとも温かくておいしい飲物なら、何でもいいのかしら。もしかしたら、コーヒーに代わるものが見つからないから、飲み続けているだけかもしれない。慣れ親しんだものだから、気軽に接し続けているだけかもしれない。特に好きではなくても……。
私は彼に聞いてみた。
「ねえ、どうしてコーヒーを飲むの?」
「飲みたいからさ」
「どうして飲みたいの?」
「のどが渇くからかな」
「そうじゃなくて、どうしてコーヒーなの?」
「飲みたいからだよ」
会話は、堂々回りする。私は、不安になった。彼が私と一緒にいるのは、私を好きだからではなく、コーヒーと同じように慣れ親しんだものだからではないかと……。
「食事に行こう」
彼が言った。私が物思いに耽っていたからかもしれない。単におなかが空いただけかもしれない。
久しぶりの和食は、おいしかった。
おなかを満足させた私。少しだけ、気持ちが落ち着いた。
お店から出る。暖簾がまだ手に触れているうちに彼が言った。
「お茶を飲んでいこうよ」
私は黙っていた。すぐには声が出そうにない。
彼はきっとコーヒーを飲む。なのに「お茶を」と言う。満腹で忘れかけていた不安が、また頭をもたげる。
彼が私の顔をのぞき込んで言う。
「お茶でいいの? って聞かないんだな」
私は顔を上げた。彼の顔をまじまじと見る。もう一度、彼が言う。
「なんだよ、どうかしたのか?」
私は、大きく息を吸う。やっとのことで声が出た。
「お茶でいいの?」
彼がほほ笑む。そして言った。
「いいや、コーヒーがいいな。コーヒーじゃなくっちゃ」
私は、思わず立ち止まる。
「どうして? どうしてコーヒーなの?」
「好きだからに決まってるじゃないか」
彼は、いつもの顔でやさしく言った。頭の中が、雲一つない青空のようになった。欲しかったものをプレゼントされた子どものように、うれしくて仕方がなかった。彼が初めて私にバラの花をくれたときの気分と、よく似ていた。
気がつくと、歩道の上で、私は彼の左腕にしがみついていた。
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