マンションの一室で、女は果物ナイフを握っていた。暗い表情で、電話の前に立ちつくす。ベルが鳴るのを待っているようだ。
女は一週間前に、恋人とケンカ別れをしていた。原因は些細なことだ。互いが謝れば、簡単に仲直りできただろう。しかし二人は、どちらも謝ろうとはしなかった。
一週間、女は苦しい日々を過ごした。もう限界だ。恋人に会えないくらいなら、死んだほうがいい。果物ナイフを持つ手に力が入る。
こちらは別の建物。二階建てのアパートの一室で、男がゴロ寝をしている。恋人とケンカ別れをしてからは、毎日が退屈だ。あれから彼女に、一度も電話をしていない。男は受話器を見つめるものの、持ち上げることはなかった。どうしてこちらから謝らなくてはならないんだ。男は意地をはっていた。
電話が鳴った。男が期待に満ちた顔になる。口元に、ほほ笑みすら浮かべて、受話器を取る。しかし聞こえたのは、聞き覚えのない声だった。
「こんばんは。今日は、ご在宅ですね」
極端に鼻にかかった声で、聞き取りにくい。性別は限定できないし、年齢も分からない。なんとなく異様な雰囲気があった。
「私は死神です」受話器の向こうで言った。
「えっ?」男が聞き直す。
「ご存じないですか、死神を。死出の旅への案内人……。昔から有名じゃないですか」
男があきれる。何てバカなことを言っているんだ。腹が立ってきた。
「あんた、おかしいんじゃないの?」
「初めて私に会う人は、皆さんそう言います。でも本物なんですよ」
「そうかいそうかい、分かったよ。で、死神さんが俺に何の用なんだい」
死神は、少しだけ口ごもったが、すぐに言った。
「別に用はないんです」
「なんだって!」男の声が大きくなる。「用もないのに死神が電話してくるのか? 冗談じゃないぜ。もう、切るからな」
「ま、待ってください。少しだけ私の話を聞いてください」死神が哀願した。「二十分でいいんです。そしたら、電話を切ります」
妙なことを言う死神だ。男は不審に思ったが、同時に興味も持った。
「どうして、二十分なんだ?」
「それは言えません」
ますます奇妙だ。
男が電話を切らないので、死神は話しだした。映画の話、料理の話、ブランドの話と、まるで死神っぽくない内容ばかりだ。
十五分が過ぎた。死神の言葉が切れたとき、男が言った。
「まだなのか」
「はい、もう少しです。あと数分で同僚の仕事も終わるし……」
「なんだって?」
死神は、小声で「しまった」と言った。男が追及する。
「どういうことなんだ。同僚の仕事って、まさか……」
男は胸騒ぎを感じた。死神は何も言わなかった。男は受話器に向かって怒鳴った。
「お前の同僚は、やっぱり死神なんだろ。そいつが仕事をしている間に、どうしてお前が俺に電話をするんだ!」
死神は答えなかった。男の緊張度が高まった。男は執拗に追及する。ようやく死神が口を開いた。
「もうお教えしてもいいでしょう。そろそろ仕事も終わるころだし。実は今日、あなたの恋人が亡くなるんです。私の同僚が担当です。同僚の仕事中に、あなたがやってきたり電話をかけてきたりすると困るんですよ。だから私が、あなたを引き止めるために電話をしたというわけです。悪く思わないでくださいね。これも仕事だもので……」
男は受話器を叩きつけた。そしてすぐに持ち上げると、恋人の部屋の電話番号をプッシュした。つながらなかった。死神が受話器を置いていないのだ。
男は焦った。電話がだめなら行くしかない。男は部屋を飛び出すと、自分の車に飛び乗った。恋人のマンションまでは、飛ばせば十分で行ける。死神の仕事がうまく進んでいないことを願った。
マンションに着いた男は、ドアベルを狂ったように鳴らした。ドアをどんどんと叩いた。恋人の名前を大声で呼んだ。すると、ドアが開いた。
飛び込んだ男が初めに目にしたのは、女が手にしていた果物ナイフだった。男はナイフをむしり取ると投げ捨てた。そして女を強く抱き締め、大声で言った。
「俺が悪かった。これからは、ずっとそばにいるからな。お前を守り続けてやるからな」
男は涙声になっていた。女は男の腰に両腕を回し、強く抱き締めた。女の表情が、満足感でいっぱいになる。
抱き合う二人の足元に、白いテーブルがある。電話と、声色を変えるおもちゃが見える。女はそれを見ながら、心の中でつぶやいた。「やっと仲直りできたわ。死神作戦、大成功」
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)