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ミニストーリー
目尻の皺
稲垣 優

 独り身の気楽さから、私立探偵になって五年。この日は、鉄道を利用して身上調査に出かけた。

 半日かかって調査を終え、帰路につく。今朝早く列車に乗った駅で降りて「さてどうしようか」と考えた。報告書は、明日書けばいい。急ぎの仕事はない。私の脚は、自然に行きつけの店へと向かった。

 タクシー待ちの客が並ぶロータリーを横目で見ながら、真っすぐ歩く。駅前通りは車があふれそうだ。対照的に、私の歩く歩道は閑散としていた。人は歩くより、車に乗って移動したがる。

 それでも歩行者は皆無ではなかった。私の前を一組のカップルが歩いていく。二人ともジーンズをはき、デザインの違うラフなジャケットを着ている。男は大きなウエーブのかかった髪をし、左肩にデイパックを引っ掛けている。女はストレートなロングヘアを風になびかせる。白いジャケットが、多少茶色い女の髪によく似合っていた。二人ともまだ若い。もしかしたら十代かもしれない。

 二人は、適当な距離をあけながら無言で歩いていた。恋人同士には見えない。かといって、ただの友人のようでもない。男の右腕と女の左腕の間隔は、それほど微妙な距離を保っている。

 しばらく行くと、橋にさしかかった。渡り終えたところで信号待ち。二人が止まる。私もならった。二人の数メートル後ろで立ち止まる。何となく近寄りがたかったからだ。信号が変わり、三人が同時に歩きだす。前の二人は、まだ私の存在に気付いていない。

 横断歩道を渡り終えたところで、男が右にいる女をチラッと見た。そして何か言った。道路を走る車の騒音は意外に大きい。女は聞き取れなかったようだ。「えっ?」という表情の女を見て、男がもう一度言う。今度は聞こえた。そう、後ろを歩く私にも、はっきり聞こえた。

「君を好きになっちゃったってこと、はっきり言っておいた方がいいと思って……」

 なんと柔弱な表現だ。私は他人ごとながら苛立ちを感じた。心の中で女に「こんな男、やめちまえ」と言った。

 しかし女は、私のようには思わなかったらしい。少し困った顔をし、それから自分の靴を見た。紐のついたエビ茶色の靴は、相変わらず前後に動いている。その歩幅は、男の歩幅の半分より少し大きいぐらいだった。

 片側三車線の太い道路に架かった歩道橋を渡り、なお二人は直進を続けた。やがて道は登りになる。この坂道の途中に、私の行きつけの店がある。前を行く二人は、私より先に私の行きつけの店に入っていった。

 店は、どうということもない、ただのパブだ。昼間は喫茶店で、夕方からパブに変身する。もうすぐ夕方だ。

 この店の長所は、安いことと客を放っておいてくれること、そしてカラオケのないことだ。今時、酒を飲ませる場にこれだけの条件を求めるのは難しい。だからここが行きつけになった。

 奥のボックスに体を沈めた二人は、アメリカンコーヒーとダージリンティーをオーダーした。私は、カウンターのいつもの席に腰を下ろす。奥のボックスから三メートルほどの位置だ。ちょうど二人に背を向ける格好になった。お互い、顔は見えない。私は飲みたくもないジンジャーエールをオーダーした。パブタイムまでのつなぎだ。

 アメリカンコーヒーとダージリンティーがテーブルに乗ると、男が口を開けた。

「さっきは、ごめん。急にあんなことを言って。でもオレ――」

「いいの。分かってる。悪いのはわたしだもん」

「そんなことないよ。いつまでもはっきりしなかったオレが悪いんだ」

「ううん、私よ、悪いのは」

 嫌でも耳に入る会話。聞いているうちに、バカバカしくなった。この手の会話は、何度も聞いている。家出した中学生や高校生を追っていると、三度に一度は聞く。髪を染め、わざとだらしない格好をする男子高生、そして女子高生も、好きな異性の前に出ると、からっきし意気地がない。水溜まりに落ちたティッシュペーパーのように、どろどろと沈んでいく。

 二人の会話を聞くうちに――決して聞きたくはなかったが、席を変わるのも面倒だったので聞いてしまったのだ――二人の関係が分かってきた。どうやら先にちょっかいを出したのは、女の方らしい。男も悪い気はしなかったくせに、いつまでも煮え切らない。そのうち女は、別の男に心変わりしてしまった。それに気付いたこの男、やっと女に自分の気持ちを告白する気になったというわけだ。なんとも、ドジな話だ。

 会話は続いた。しばらくは、バカバカしい堂々巡りが続いたが、三十分もたつと言い方が変わってきた。「自分が悪いんだごっこ」は終わりに近づく。興奮が治まってきたのだろう。

 そして女が言った。

「結局私、あなたが好きだったけど、愛していなかったのね」

 おいおい勝手に結論を出すんじゃない。

「好きと愛するとは、違うのかい?」男が言う。

「違うわ。それって恋愛と結婚が違うのと似ていると思うの」

「オレには分かんないよ、そんなの」

「分かんなくてもいいの。ただ、私があなたじゃなくて彼を選んだのは、彼を愛したからじゃないってことを分かってほしいの」

「分かんない、分かんないよ」

「ねえ、聞いて。今の私は彼が好き。でもあなたを嫌いになったわけじゃないの。二人を比べると、彼の方がちょっとだけ好きなの。それを素直に表現すると、あなたとはお付き合いできないってことになっちゃう。でもそれは、彼を愛したからじゃないのよ」

「そんなの、君のわがままじゃないか。君は勝手だよ。悪者になりたくないんだ。だからそんな――」

「違うわ。そんなんじゃない」言って、女は詰まった。どうやら考えているらしい。そして決心を固めたように、少し低い声で話し始めた。「うちの父さん、単身赴任が決まったの。行っちゃったら十年は戻れないって言ってるわ」

「単身赴任?」

「そう。あなたみたいに自営業者の子には分かんないわよね、こんなの。でも世間には、単身赴任っていう現実があるの」

「知ってるよ。テレビで見たことがある」

「でね、父さん、会社を辞める気なの。どうしてだか分かる?」

「いや……」

「家族がバラバラになるぐらいなら、今の会社にしがみ付いていたくないって言うの」

「……」

「私ね、子供のころから父さんが好きだったの。一緒に遊んでくれたし、動物園とかによく連れてってくれたわ。それに夜眠る前に、必ずお話をしてくれたの。父さんはお話を作るのが上手で、毎晩違うお話を聞かせてくれた。動物の家族が出てくるお話が多かったのよ。でね、いつも言ってたの。『オレたち四人は家族なんだぞ』って。弟は、ふうーんって言うだけだったけど、私は、そうだ! って、訳も分からず感動してたわ。その父さんが、単身赴任するなら会社を辞めるって言い出したの。これって、すごく自然だと思わない?」

「う、うーん。よく分かんない。そんなに簡単に会社を辞められるのかどうか、分かんないよ。でも、羨ましいな。自分の父親をそんなに好きになれるなんて」

「そんなふうに言われると恥ずかしいけど。でね、私、父さんがそう言ったとき、そうだよね、当然だよねって思ったんだけど、急に冷静になっちゃったの。それでね、父さんの顔を見たの。そしたら目の横に、皺がいっぱいあったのよ」

「年を取れば、誰だって皺ぐらい出るよ」

「そうだけど、私、毎日父さんの顔を見てたのに、そのことに気付かなかったの。それで父さんの皺を見て、私、思ったの。私は父さんが好き――じゃなくなったって」

「嫌いになったのかい?」

「違うわ。愛するようになったの」

 女の口調が変わった。照れているらしい。私には見えないが、きっと真っ赤な顔をしてうつむいているのだろう。父親を愛するという言葉は、とてつもなく恥ずかしいものらしい。

「よく分かんないよ、オレ」男は無愛想に言う。

「私もうまく説明できないけど」女は気を取り直して、口調を戻しながら言う。「ずーっと大好きだった父さんが、父さんじゃなくて家族の一人になったっていう感じなの」

「よけいに難しいよ」

「そうね。じゃあ、これでどう? 父さんと私の目の高さが同じになった――っていうのは?」

「目の高さが同じに?」

「そう。私が父さんを好きだって思ってたときは、父さんの目は、ずっと上の方にあったの。だから皺なんか気付かなかった。でも同じ高さになったから皺に気付いたの」

「……」

「今、私がいちばん気になるのは、父さんが単身赴任したらちゃんとご飯を食べられるかってこと。お話の上手な父さんがいなくなっちゃうことより、その方が気になるのよ、今は」

「今でも親父さんのお話を聞いて寝るのかい?」

「そんなことはないけど」

 女が笑った。男も、それに応えた。

 男がボックス席の背もたれに体重を預ける音がした。少し緊張がほぐれたのだろう。続いて女が小さく息を吐いた。もしかしたら微笑んでいるかもしれない。

 カチャリと陶器が触れ合う音がし、液体をすする音がした。

「冷たいや」男が言った。そして笑い、また言った。「オレ、君を諦めなくてもいいんだよな。君は、あいつを好きになったけど、それは今の気持ち。まだ誰も愛しちゃいないんだ。もしかしたら、ある日君は、オレを愛しだすかもしれない。そのときオレも君を愛しだしていたら、こんなスゴイことはない。君がオレの目尻の皺、じゃなくて耳のホクロに気付くまで、オレは頑張る。だから、友達でいてくれよ」

「もちろんよ。私は、あなたと離れたくないもの」

 やれやれ、なんとか治まった。しかし若いもんはいい。こんな短時間の話し合いで結論が出せるんだから。私は、二十年近く前の自分に思いを馳せた。結婚する前の妻とのことが、昨日のことのように思い出される。この二人、私と妻に似ていると思った。自然に口元が緩む。

 ふとカウンターの奥を見ると、いつものバーテンダーが、ボウタイの歪みを気にしながらこちらへ歩いてくる。どうやら私が待っていた時間がきたらしい。私は、いつものバーテンダーに「あのカクテル」を二つオーダーした。奥のボックスにいる二人には、あれがよく似合う。

 オーダーを聞いたバーテンダーは、各種のボトルを集めながら、小声で言った。

「今日は、奥様の命日でしたっけ?」

copyright : Masaru Inagaki(1992.4.5)

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