ケータイから流れるヒロシの声が遠くに聞こえる。なんでケンカが始まったのかさえ分からなくなっている。感情が高ぶる中「切るから」の一言で通話を終えた。
娘の私の会話を台所で聞いていた母が、心配そうな、でも気にしていないような微妙な表情で見ている。
ケータイをテーブルに置き、ソファに座ると、母の声がした。
「今日は、おばあちゃんちへ行く日だけど、一緒に行く?」
祖母は母の実家で、元気に一人暮らしをしている。母は月に何度か訪れ、話し相手になっている。
母と一緒に祖母の家へ行く。母が祖母と話している間、私はケータイをもてあそんでいた。そのときチリンと微(かす)かな音が聞こえた。風鈴のそれとは少し違う機械的な音。母に声をかける。
「ねえ、チリンって音がしたよ」
祖母の顔が少し心配そうになったのを見てか、母が立ち上がる。
「どこから?」
「あっちの方から」
私が廊下の先を指さす。廊下の突き当たりにある物入れまで行った母が扉を開ける。上下二段の上の段、右の奥に、古い電話機が見えた。
「あれかな」
私が言うと、母が電話機を自分の近くに引き寄せた。
「こんな古い物、まだ取っておいたんだ」
母の独り言が終わらないうちに、またチリンと小さな音がした。間違いなく電話機から出ている。
私が戯れに受話器を持ち上げて耳に当てると、男女の声が聞こえた。
母に受話器を渡す。母は耳に当てた瞬間、顔色を変えた。
「これって、あのときの……」
そう言ったきり聞き入った。そして、ときおり独り言を交えた。
「なんで、こんなことを言ったんだろう」「私、バカみたい」
気になった私は、受話器に耳を近づけた。母がまた独白する。
「このあと私が電話を切るんだわ」
直後、受話器から「もう何も聞きたくない」という言葉が聞こえた。おそらく母の声。でも声が若い。続いて受話器の中で、ガチャンと電話が切られた音がした。それに被さるように男性の声が聞こえた。
「ごめん、僕が悪かった」
同時に母が目を見開いた。
「あの人、謝ってくれたんだ……」
母の目から大粒の涙がこぼれる。電話の女性は若い日の母で、男性は当時お付き合いのあった方だろう。
受話器をそっと置いた母が言う。
「付喪神(つくもがみ)になったのかしら、この電話機。昔のことを思い出させてくれるなんて」
長く人と過ごした物には、魂が宿ることがあると聞いたことがある。この電話機は、母が若いころ、毎日のように使っていた物という。
電話機を元の場所へ戻した母が、私の方へ体を向け、私の目を見て、ゆっくりと、はっきりと言った。
「もう一度ヒロシ君と話をしなさいね。途中で投げ出してはダメ」
私はうなずくと振り向き、ポケットからケータイを出してリダイヤルした。廊下から玄関へ進み、外へ出る。まぶしい日の光に照らされたとき、ヒロシが電話に出た。
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