総合病院の最上階の一室で、一人の老婆が死の淵にいた。平均寿命を疾(と)うに過ぎて体は弱っているが、意識はしっかりしている。周りを子供や孫たちが囲み、心配そうに見つめている。
老婆のベッドに誰かが近づいた。黒いコートのようなものをまとい、頭にフードをかぶっている。不思議なことに、老婆以外、そこにいる誰もそいつに気づいていない。老婆が静かに目を開けた。
「誰だい、あんた」
老婆の問いに、そいつが答える。
「ばあさん、あんたはもうすぐ死ぬ。その前に一つだけ願いを叶(かな)えてやるよ」
「あんた、死神かい。そうかい、やっとお迎えが来たんだね」
「で、何が望みだ」
老婆は少し考える目をしてから言った。
「もう何も望むことなんかないよ。早く連れていっておくれ」
死神は引かない。
「みんなそう言うんだよ。でもな、死んでから、あれを望んでおけばよかったと後悔するヤツがたんまりいるんだ。だから言えよ、望みを」
「老いぼれに、望みなんて……」
言いかけた老婆が死神を見る。
「じゃあ……」
その口が望みを一つ発する。死神は即座にうなずき「お安い御用だ」と言った。
老婆は、とある高校の銀杏(いちょう)の木の横に立っていた。幹にもたれてうなだれている女子高生に近づき声を掛ける。一分か二分ほどの間、女の子はうつむいたまま老婆の声を聞いていた。最後まで顔を上げることはなかったが、話し終えた老婆の姿が消えたとき、慌てたように幹を一回りして辺りを見渡していた。そこにはもう誰もいなかった。
気がつくと老婆は病院のベッドに横たわっていた。死神が言う。
「クラスでいじめられていたんだな。でもな、ばあさんが声を掛けたくらいで立ち直るとは思えない。あんたも人間を長くやってきたんだから、それくらいのことは分かるだろう。無駄なことをしたな」
聞きながら老婆は、口元に笑みを浮かべた。
「いいのよ、それで。誰かが声を掛ければいいのよ」
笑みを残したまま、呼吸が止まった。病室内に「おばあちゃん!」という大声、そして号泣が入り交じった。医師と看護師が忙しく動き回ったが、それは長くは続かなかった。
老婆の魂を愛用のずだ袋に入れた死神が静かに舞い上がる。病室の天井をすり抜けようとしたとき、何かに気づいてはっとし、眼下の亡骸に目を向けた。
「ばあさん、あんたは正しかったんだな。だから天寿を全うできたわけか。十七歳のあんたが、いじめを苦にして死にたいと思っていたとき、誰かの言葉がほしかった。だから俺にそれができるように望んだ。でもな、あんた自身、老婆になった未来のあんたから声を掛けてもらっている。そのことを忘れているんだな。俺も今、思い出したが」
そして目を伏せて、やさしく言った。
「年はとりたくねえな、全く……」
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