帰り支度をしていた医師の安永は、救急搬送されてきた主婦を見て、脱いだばかりの白衣に毛深い腕を戻した。
主婦は運転中に事故に遭ったらしい。目立った外傷はないが、意識が戻らず、予断を許さない状況だった。集中治療室でできる限りの処置を済ませた安永は、急激な容態の変化はないと見て、引き継ぎの医師と看護師に任せることにした。
着替えを済ませて病院を出る。駐車場で車に乗り、エンジンをかけたとき、なぜだか無性に餃子を作りたくなった。いても立ってもいられなくなり、そのまま車で病院近くのスーパーマーケットへ向かった。
独身でマンションに一人住まいの安永は、ほとんど料理をしない。餃子の作り方など全く知らないはずだが、自宅に戻ってすぐ、安永の手はよどみなく動き、いくつもの餃子を作り上げた。
焼きたてを皿に盛り、ラップを掛け、家を飛び出した。車が動きだしたとき、自分が職場へと向かっていることに気づいたのだった。
病院までは車で十分ほど。到着すると、病室棟のエレベーターへ向かっていた。七階で降りて四人部屋の七〇三号室へ入り、右手奥のカーテンを開けて患者の前に立った。
「せ、先生、どうされたんですか」
男性患者が、皿を持った医師を見て、驚いた声を出す。安永自身も、一体何が起きているのか見当もつかなかった。患者のベッドを見ると伊藤某と氏名が書かれている。安永は、しどろもどろになりながら、伊藤に言った。
「い、いかがですか、餃子を一つ」
言われた伊藤は目を白黒させた。
「餃子は好物ですが。じゃあ一つ」
皿から餃子を摘み上げて口に運ぶ。二度ほど噛んですぐ言った。
「先生、この味って……」
伊藤が言い終わる前に、病室に看護師が飛び込んできた。
「伊藤さん、奥様の意識が戻りましたよ。もう大丈夫だそうです」
それを聞いて伊藤が「よかった」とつぶやいた。
安永が看護師に聞く。
「この患者さんの奥さんも、病院にいるのかい?」
「ええ。夕方、交通事故で搬送されてきたんです」
看護師の答えに安永は「ああ、あの人か」と独り言。すぐに集中治療室へ向かうと、安永が治療した主婦がベッドの上で体を起こし、近くにいた看護師と話をしていた。
「私ね、夢を見ていたのよ」
「へえ、どんな夢なんですか」
看護師に促されて主婦が続ける。
「餃子を作っている夢なの。今日、夫の病室から家へ帰るとき、餃子を作ってくるって約束したの。そのことが気がかりだったんでしょうね。夢の中で餃子を作っていたのよ」
「そうなんですか」
「でも妙なの。具をこねる腕がとっても毛深かったのよ。私、そんなに毛深くないんだけどね」
「もしかして、夢の中で誰かに作らせちゃったんじゃないですか」
看護師の答えに二人して笑う。その横で安永医師は、右手の人差し指の先を自分に向けて「俺?」と独り言を口にしていた。
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