病に侵されたとはいえ、自宅での療養が可能だと医師に言われて従った夫だったが、半年もたたないうちに帰らぬ人となってしまった。
この半年間、夫は私や娘、息子と、たわいのない会話をしながら、にこやかに過ごした。傍らにはいつも柴犬のシローがいて、それがまた慰めになっていた。朝晩のシローの散歩はいつも夫が行っていたが、療養に入ったころから妻の私の日課になっていた。
それは四十九日が終わったころの朝の散歩だった。いつもの道を進む。しばらくして信号を渡り、園芸店の角を曲がった辺りで声がした。
「この臭いは例のプードルだな」
私は周囲を見回した。早朝のこともあり誰もいない。しかし確かに聞こえた。男性の声だった。
「老いぼれゴールデンの野郎、こんな所まで足を延ばしているのか」
まただ。奇妙なことに、声はシローから聞こえてくる。
「まさかね」
私が言うと、即座に声がした。
「なんでそう決めつけるんだい?」
シローは立ち止まり、こちらを振り向いてそう言った。半眼で、私に少しの哀れみをかけているような不思議な目をしていた。
「親父さんはいい人だったな。内緒でビーフジャーキーをくれたりしてさ。俺、好きだったんだぜ」
何がなんだか分からなくなり、私が呆然としていると、シローは口元を緩ませて鼻で笑うような仕草をし、前を向いて歩きだした。彼は「この臭いは新参者か」とか「生意気カラスがゴミをあさってるな」などとしゃべり続けていた。
家へ戻り、玄関でシローの足を拭いていると、彼が私を見て言った。
「親父さんの部屋へ来なよ」
連れだって、夫の書斎兼療養部屋へ行くと、シローが本棚の前にちょこんと座った。
「そこのアルバム、見てみなよ」
言われて真新しいアルバムを引き出す。これまで家族で撮ってきた写真がきれいに整理してあった。私がページを繰るとシローが言う。
「親父さん、毎晩それを見てニヤニヤしていたよ。そんなにいいものなのか、そいつは」
不思議そうにアルバムを見るシローに向かって、私が言う。
「そうね、わが家の宝物だわ」
聞きながらシローは、そんなもんかねと言いたげな顔で、寝そべってしまった。
私はなおもページを繰る。最後のページまで来たとき、手が止まった。そこには夫の文字でこんなことが書いてあった。
「美和子、アリガトな。俺、先に逝っちゃうらしい。ごめんな」
夫は知っていたのだ。手の施しようがない病状のため、医者が自宅での療養を勧めたことを。自分の死期を知りながらも、夫が大切にしてくれた家族との時間は、アルバム同様、大切な宝物だ。
部屋に入ってきた息子が言った。
「シローがワンワン吠える声と母さんの声が聞こえたけど、どうかしたの?」
シローは寝そべったままで顔だけ私に向けている。その目は、いつも通りの犬のシローの目だった。
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)