週末の帰宅時。いつものように駅から自転車に乗って走り出したとき、バランスを崩してガードレールに顔面をぶつけた。なんとか帰宅したが、目を痛めたらしく、よく見えないので、妻の運転で夜間救急外来へ。包帯が巻かれ、医者は、数日は目を使わないようにと言った。
病院からの帰り道、妻が「明日からの旅行、やめるわ」と言う。学生時代の友達との一泊二日の旅行。妻は半年前から楽しみにしていた。私は「俺なら大丈夫。マンションに閉じこもっているさ」と笑った。
翌朝、渋る妻を送り出す。妻は冷蔵庫に作り置きの料理を入れ、電子レンジで温めるだけにしてくれた。私にしてみればこれで十分だ。
一人になってからは、ラジオと過ごした。昼食は妻が作ってくれたサンドイッチを食べた。夕食はドリアを電子レンジで温めた。食後、食器を台所へ置きに行ったとき、居間と台所の間にある敷居につまずいてしまった。「転ぶ」と思った瞬間、誰かの腕が私の腹を支えた。妻が心配して帰って来たのだろうか。
「帰って来たのか?」
私の問いに妻は答えなかった。
「どうした? 風邪でも引いて声が出なくなったか?」
すると妻が私の肩をトントンと叩いた。体調を崩したから帰って来たようだ。妻の友人には申し訳ないが、私は救われた気がした。
その後も妻は言葉を発しなかったが、常に私のそばにいることが感じられた。トイレに立つとドアを開けてくれたし、何も言わなくても飲みものを用意してくれた。揚げ句の果てには肩までもんでくれる。なんだかいつもの妻ではないように思える。何か下心があるのかと笑ったが、妻は相変わらず声を出さず、私の肩をトンと叩くだけだった。
翌朝は、寝過ごしてしまった。ラジオをつけると、午前十一時になったところだった。
玄関でチャイムが鳴る。私が「どちら様ですか」と問うと、「私」と妻の声。奇妙な感覚に囚われながらカギを開ける。
「心配だから帰って来ちゃった」
「え? お前、今帰って来たのか? 昨夜じゃなくて?」
「何言ってるの? 昨日は友達と旅館に泊まったわよ」
じゃあ昨夜、私は誰と一緒にいたのだ? 急に背筋が冷たくなった。
妻に事の顛末を話すと不思議そうにふんふんと聞いていたが、何かに気付いたらしく、ぽつりと言った。
「あなた、電話の横のホワイトボードに書いてあるの」
「何が?」
「お父さんをよろしくね……と」
「……」
「マチ子があなたの面倒を見てくれたのね」
「そ、そんな……。だったらなんで声を掛けてくれなかったんだ」
「無理して出て来たのかも」
妻の寂しそうな声が響いた。自分の前にも現れてほしかったと、その声色は言っていた。
チーンとりんの音がした。妻が仏壇に手を合わせているようだ。
幼くして亡くなった一人娘のマチ子。昨夜、その成長した姿を見られなかったことが、私も心残りだ。
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