「もし私が死んじゃったらどうする?」
麻利子がまじめな顔で夫の明彦に言う。
「どうしたんだい、やぶからぼうに」
明彦は夕刊のテレビ欄を見ながら笑った。右手に持った箸が、ちょうどマグロの刺身をつまもうとしたときだった。
「だから、もしよ。もし私が死んだら…」
「そりゃあ、人間はいつかは死ぬんだ。だから、もしそんなことがあったら、寿命だと思ってあきらめるしかないなあ」
相変わらず明彦は笑っている。それに反して麻利子の表情は、真剣そのものだ。
「じゃあ、死んじゃうんじゃなくて、重い病気にかかったら?」
「えっ?」
「それとも、ある日、突然、私がどっかへ行っちゃったら?」
「おいおい、どうしたんだよ、急に」
明彦は心配になってきた。初めはほんの冗談かと思っていたのに。
結婚して三カ月。まだ新婚といえる自分たちの間でこんな会話がされるのは、だいたいにおいて妻が甘えてくるときだろうと思った。「私が死んだらどうする?」「そりゃあ僕も後を追うさ」なんていうやりとりを妻が期待しているのかと思った。本当に「後を追う」ことはないにしても「それくらい君のことを思っているよ」と夫に言わせたい妻がそこにいると思ったのだ。
しかし、それとは違うようだ。自分たちの愛情を確認するためであるなら、もっと柔らかな表情をしていていいはずだ。とろりと溶けだしそうな雰囲気の中で「ねえねえ、もし私が死んじゃったらどうする?」なんて聞かれるのならともかく、今の麻利子の表情は、それとは全く違う。大きな不安を抱えているように思える。
顔では笑いながら明彦は、自分の心臓の音が大きくなっているのを感じていた。
彼女の茶碗を見れば、ご飯が全く減っていない。サラダに入ったレタスが、しおれているように見えた。
「もし妻が死んでしまったら」そんなことは考えたこともなかった。しかし今、妻は真剣な顔で自分の死を口にする。
「何かがあったんだ…」
明彦は、思った。
自分の笑顔が消えていくのが分かった。厳しい表情になっていたかもしれない。そして明彦は、頭をフル回転しだした。
妻はどうして急に、自分が死んだら、などと言い出したのだろう。そういえば先月、会社で健康診断があった。そこで病気が見つかったのだろうか。今まで言い出せずにいたが、どうにも心配で、とうとうあんなことを言い出したのだろうか。
いや待て。それではあまりに直接的過ぎる。彼女の気持ちに変化が起きたのかもしれない。結婚したばかりだとはいえ、もしかしたら彼女は、夫である自分に大きな不満を持ちだしたのかもしれない。そういえば新婚旅行のときにケンカをした。先に結婚している友人は「だれでもそうさ。初めのケンカは、新婚旅行でやるもんだぜ」などと茶化していたが、麻利子は、あのときから夫への不満を募らせていたのかもしれない。
いや、もっと違う理由かもしれない。ケンカのことではなく、彼女に新しい男の影が…。
考えれば考えるほど、明彦にとって悪いことばかりが思い立つ。彼の不安は加速度的に増えていく。額にしわが寄っているのが自分でも分かった。心臓はさっきの倍の速さで鼓動を繰り返す。箸を持った右手に汗がたまっているのに気づいた。
限界だった。これ以上、不安と闘うことは、明彦にはできなかった。妻に聞いた。
「正直に言ってくれ。何があったんだ」
すると麻利子は悲しげな目で言った。
「怒らない?」
怒る? ということは、病気ではないのか。ケンカのことなのか。それとも男ができたのか…。
「ああ、怒らないさ。だから、だから正直に言ってくれ」
すると麻利子は、観念したように、ゆっくりと言った。
「私、うちの車のバンパーを電柱でこすっちゃったの」
泣きそうな顔で言う麻利子。
そして明彦は、大声で笑った。
「なんだ、そんなことか。びっくりさせるなよ。こっちはもしかしたら…」
「もしかしたら?」
「いや、なんでもないんだ。まあバンパーに傷を付けたくらいなら、どうってことないさ。ああ良かった。心配して損した」
車に傷を付けられた明彦が、うれしそうに笑っている。それを見ながら麻利子は、ピンクの舌をちょろっと出した。そして口には出さない独り言を思い浮かべる。
「よかったわ。あれだけ大事にしている車に傷を付けたんだから、どれだけ怒られるかと思ったけど…。作戦成功ね」
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