「あっ、とうたんだ!」
来月二歳になる木下勇一は、母親の真美と買い物に出たとき、偶然父親の幸二を見つけた。勇一の父はビルの外壁にもたれて、ぼうっとしていた。勇一が駆け寄る。
「ねえ、とうたん、とうたん。おうちに行こ」
父親は返事をしなかった。まるで見ず知らずの子どもに声をかけられたかのように、全く無視していた。
真美が近づく。彼女も幸二に声をかける。
「あなたどうしたの、こんなところで。お仕事の途中なの?」
やはり男は返事をしなかった。それどころか上着の襟を立て、顔を見られないようにしている。
真美は不審に思った。夫に何か問題が起きたのだろうか。もしかしたら、誰かに追われているのだろうか。それなら自分が気やすく声をかけてはいけない。勇一にも素知らぬ振りをさせなくては。真美は男に近づくと、そっと小声で言った。
「あなた、何かあったの? 私たちがここにいては困るようなら、小さくうなずいて。すぐに勇一を連れて帰るから」
すると男は、目玉だけを真美に向けた。しばらく彼女を見ていたが、思い出したように小さくうなずいた。
男の様子を見ると、真美はすぐさま勇一を抱きかかえた。くるりと向きを変えると、すたすたと歩き去る。後には上着の襟を立てた神経質そうな表情の男だけが残った。
その日の夜、真美は夫に昼間のことを聞いてみた。
「あなた、今日は一体どうしたの? 人目をはばかるみたいに立ってたけど」
ビールを飲み終えてご飯へ移ろうとする夫は、きょとんとした顔で妻を見た。
「なんの話だい?」
「なんの話だ、じゃないわよ。あんなところでぼうっとしてて、揚げ句の果てには上着の襟まで立てちゃって。あれじゃあまるで逃亡者よ」
「おまえも古いね。逃亡者ってなんとかビンセントってヤツだろ?」
夫が古いテレビ番組の話をする。妻は全く理解できなかった。
「何言ってるの。ねえ、どうしたの? 何があったの?」
「なあんにもありゃしないよ。お前、変だぞ。今日の昼間、俺はお前には会わなかったぞ」
それ以上話を続けることはできなかった。夫は昼間のことをまるで覚えていない。あまりに奇妙な出来事だ。あれは、間違いなく夫だった。なのにどうして夫は、自分ではなかったと言うのか。真美は自分たち一家が、とてつもない事件に巻き込まれているのではないかという不安でいっぱいになった。
翌朝、夫を送り出すと、真美はいつものようにテレビのワイドショーを見ながら朝食の後片づけをしていた。しばらくすると画面に、ある言葉が映し出された。瞬間、真美の体が凍りついた。
「広がる覚醒剤地獄/一般サラリーマンにも魔の手が」
まさか。まさか夫が……。思い当たる節はある。昨日のあの表情は普通ではなかった。焦点が定まらない目。家族を認識できないほど呆然とした様子。もしかしたら……。真美は目の前が真っ暗になるのを感じた。テレビで言っていることが、わが家にもあてはまってしまうなんて。絶望の淵に叩き落とされた真美は、そばにいた勇一を抱きかかえた。しかし真美は気丈な女だった。自分自身にゆっくりと言う。「今晩、はっきりさせよう」妻であり母である真美の表情が、きりりと引き締まった。
「いやー、昨日はまいったよ」会社に着いた木下幸二が、同僚に声をかける。「偶然女房に会っちゃったんだよ、あそこで」
「あそこって、あそこでか?」
「そうなんだ、あそこでさ」
「そりゃあ、まずいなあ。で、どうした?」
「もちろん、しらばっくれたさ。まさか本当のことは言えないぞ」
「確かに。しかしまあ、お前も運が悪いな。もし本当のことがバレたら、カミさんがなんて言うか」
「バレやしないよ。証拠品は家には残しておかなかったからな」
言いながら木下幸二は、鞄の中から紙袋を出した。幸二が幸せいっぱいという顔で中をのぞく。そこには「無修正、絶対満足、発禁必至」などの活字とともに全裸の女性の写真が載った本の表紙が見えていた。
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)