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ショートショット!
間違い電話
井上 優

 受話器を握る手が汗ばんでいる。吉澤敬子は、かわいい熊のイラストがついたメモ用紙と、プッシュホンの番号を穴があくほど見ていた。絶対に番号を間違えたくない。そんなかたくなな気持ちが彼女を包んでいた。

「はい、もしもし」

 相手が出た。敬子の緊張がさらに高まる。おもむろに聞く。

「あの、山田さんのお宅ですか?」

「違いますよ」

「あっ、ごめんなさい」

「ああ、間違えですか。いいんですよ。気にしないでください」

 すがすがしい声だった。間違いないと、敬子は確信した。黒柳先輩は、今年の春から一人暮らしを始めたという。そしてこのメモにある数字は、その部屋の電話番号だ。つまり今出た男性が黒柳先輩その人なのだ。

 敬子は「ごめんなさい」とわびを言い、受話器を置いた。もちろん間違えたのではない。確かに先輩の部屋に電話したのだ。親友の芳江が調べてくれた電話番号。敬子が先輩を好きなことを知っている芳江が、そっと教えてくれた電話番号なのだから。

 でも気弱な敬子には、自分の名前を言って先輩に電話する勇気はない。そこで敬子は、間違い電話のふりをして先輩の声を聞こうとしたのだった。

 翌日、吉澤敬子は芳江に電話し、先輩とのアクセスに成功したことを熱っぽく話した。芳江は、うれしそうに聞いていた。

 敬子の報告が一通り終わると、芳江が言った。

「ねえ、今日も電話してみたら?」

「えー?」

「もしかしたら優しい言葉をかけてくれるかもよ」

「そんなはずないでしょ。先輩にしてみれば私がかける電話は、ただの間違い電話なんだから」

「それはそうだけど、何か通じるものがあって、気楽に話せるようになるかも……」

「そんなバカな……」

 敬子は笑った。芳江も笑い「それもそうね」と自分の意見を取り下げた。そして「明日早いから」と電話を切った。

 受話器を置いて敬子は考えた。芳江の提案は、ばかばかしいものだった。しかし、もしそうなったら……。敬子は、知らないうちにほほえんでいる自分に気づく。すぐに受話器を持った。

「もしもし、山田さんですか」

 敬子のしらじらしい芝居に、相手がまじめに答える。

「違いますよ」

「あ、ごめんなさい」

 すると相手が、敬子を驚かせるようなことを言いだした。

「君、もしかしたら昨日の子だね。山田さんちになかなか電話できないんだね」

「ええ……」

「僕、今、暇なんだ。よかったら話し相手になってくれないか」

 敬子の心臓が爆発しそうになった。それでも二人が会話を楽しみだすのには、さほど時間はかからなかった。

 それからというもの、敬子は毎日のように「間違い電話」をした。先輩とこんなに話ができるなんて……。敬子の毎日は、まさにバラ色だった。

 そして一カ月ほどが過ぎたある日、電話の相手が言った。

「一度、君に会いたいな」

 敬子の心臓がまた爆発しそうになる。そんな、そんな……うれしいけど……。気弱な敬子は辞退した。それでも相手は引き下がらなかった。そして強引に会う日にちと時間、そして場所を指定してしまった。

 約束の日、約束の場所で待つ敬子に向かって、自分と同じくらいの年格好の男性が近づく。敬子の前まで来ると言った。

「君だよね、山田さんになかなか電話できない子は」

 驚いた。その声は、まさに毎日電話で聞いている声だった。でも先輩じゃない。

 敬子は焦った。そして迷った。ずっと先輩だと思っていた相手が、実は違う人だったのだ。でも、自分は「間違い電話」の相手と話しているときが一番楽しかった。それは、相手が先輩だったからではなく、相手の人柄がとてもよくて、自分にピッタリだと感じていたからだ。敬子は迷いを振り払うように頭を振り、言った。

「そうよ。私が山田さんに電話をかけられない子です」

 敬子がほほえむ。相手もほほえむ。そして二人は並んで歩きだした。

 近くに、二人の様子をうれしそうに見る芳江の姿があった。芳江は電話ボックスの影に隠れながら、独り言を口にした。

「よかった。敬子には黒柳先輩より、あの岡本君の方がピッタリだと思ったけど、やっぱりそうだったみたい。岡本君の電話番号を教えて正解だったわ」

copyright : Yuu Inoue(Masaru Inagaki) ffユニオン28号(1995.7月号)掲載

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