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ショートショット!
死後の世界へ連れてって
井上 由

 女は、ずいぶん長い間「死にたい、死にたい」と言い続けていた。思い通りに事が進まないのは、精神によくない。女のストレスはピークに達しようとしていた。今日もまた「もう死んじゃいたいよ」と口走ってしまった。とあるビルのエレベーターの中でだ。

 いくら女のストレスが大きいとはいえ、さすがに人混みの中で、そんなことは口にしない。でも、いったん人通りのない路地や、誰もいないトイレ、噴水だけが音をたてる公園などへ行くと、ついこの言葉が出てしまうのだ。女は自分が疲れていることに気づいていた。こんな毎日から、早く逃げ出したかった。

 一ヵ月ほどまえから死神は、この女に目をつけていた。一ヵ月の間、女は何人かの男と接触している。しかし男との関係が進展した様子は全くない。たぶん女は、失恋の連続なのだろう。そのうえ「死にたい」と、何度となく口走っている。死神にとっては、見逃せない人物だ。

 女が歩道橋に上がった。階段を一段ずつのぼる。あたりに人の気配はない。階段をのぼりきったところで、女がまた「もう、死にたいわ」と独り言を口にした。そのとき……。

「お嬢さん、本当に死にたいのですか?」死神が声をかけた。

「えっ?」女が驚いた声を出す。

「脅かしてすみません。私なら、ここです」死神が、女の背後から声をかける。人間界にいる間、愛用の大草刈ガマは小さくして背中に隠してある。服装も人間と変わらない。だから声をかけても怖がられないというわけだ。

 女は素早く振り返る。そこには、女と同じぐらいの年格好の男がいた。淡い色のダブルのスーツが、よく似合っている。

「なんですか?」好みのタイプの男性に声をかけられた女は、やさしく言った。

「あなたが本当に死にたいと言われるのなら、お手伝いできるのですが」死神が言う。

「どういうことでしょう。あなた、殺し屋さん?」

「いえいえ、そうではありません。私は死神です」

「あら、ほんとに? へー、そうは見えませんけど」

 女は驚いた様子もない。からかわれていると思ったのだろう。死神は女の思い込みを利用することにした。

「どうです? だまされたと思って、一度死んでみませんか?」

「一度死んだら、二度と生き返られないじゃありませんか。死神さんは、死なないんでしょうけど」

「ええ、まあ。いや、私のことはいいんです。あなたは死にたいんでしょ」

「そうねえ」女は考えるふりをした。「もし私が死ぬってきめたら、あなたはずーっと私のそばにいてくれます? そうしてくれれば、死んでもいいですよ」

「ずっと、そばに……ですか?」死神を考えた。最近、成績が思わしくない。こんなチャンスはめったにないじゃないか。ここは、なんとしてもこの女を霊界へ連れていかなくちゃ。「いいでしょう。あなたが死ぬと決めたなら、私がずっとそばにいてあげましょう」

「ほんとね。よかった。じゃ、私、死ぬことに決めます。いっしょに霊界へ行きましょ」

「そ、そうですね。本当にいいんですね」

「もちろん。あなたこそ、約束は守ってくださいよ」

「はあ……」

 死神は、なんとなく奇妙な気分だった。自分が死ぬというのに、こんなに明るい人間がいるだろうか。今まで一度だって、こんな人間に会ったことはない。でも……。ま、いいか。死神は楽天家だった。とにかく成績をあげなくちゃ。

 死神は、くるりと回転すると、霊界へ戻るとき用の黒装束に戻った。背中に隠しておいた大草刈ガマを、元の大きさに戻して、右手に持つ。それでも女は、何も言わなかった。

 死神が左手で女の右手を取る。ふっと、二人の体が宙に浮く。そのとき女が独り言を言った。死神の耳に入らないほどの小さな声で。

「よかった。これで大手を振って霊界へ戻れるわ。ここんところ成績が悪かったけど『永久就職』しちゃえば関係ないもんね」

 空を飛ぶ死神と女。いつのまにか女の服は黒いマントのようなものに変わっていた。そして、背中には、大きな草刈ガマがぴったりとくっついていた。

copyright : Yuu Inoue(Masaru Inagaki) ffユニオン16号(1993.7月号)掲載

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