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ミニストーリー
マイタウン安城 (1)
ゆとりの街
稲垣 優

 「父さん、風が見えるよ」安城へ引っ越してきた日、息子が初めに言った言葉だ。童話じゃあるまいし、風が目に見えるわけがない。なのに本当に見えるような気になるから面白い。

 家の周りを散策すると、木の枝や葉はしなやかに揺れ、川面には小さな起伏の群れが走る。そして稲が、何かになでつけられるように順番に体をしならせていく。「風が見える」という息子の言葉は、あながちウソではない。

 今までは、安城より少し大きな街にいた。大都会というわけではないのだが、それでも「風」を見たことはなかった。安城に移り住んで、こんな素敵な気分になれたのは、もしかしたら街全体が持つゆとりのせいかもしれない。最近、いろいろな所で、ゆとりとか潤いを考えようと叫ばれている。物質的に豊かになった日本でいちばん足りないもの、それは心のゆとりかもしれない。

 私は引っ越してきて良かったなと肌で感じた。息子も同じことを感じたらしい。「父さん、引っ越してきたら気分がゆったりしちゃったみたいだね」「分かるか」「うん。だって父さん、犬のウンチ踏んづけたのに気が付かないんだもん」全く気が付かなかった。立ち止まり、足を持ち上げる。臭い。「人が犬のウンチを踏むということは、父さんが子どものころにはよくあったものだ。みんな、そういう自然なことを忘れている。それこそ心が貧しいってことだぞ」だれにでも負け惜しみと分かる言い訳をする。案の定、息子はニタニタと笑っている。親子でこんな雰囲気に浸ったのも、久しぶりのことだ。いい街へ来たものだ。

copyright : Masaru Inagaki (『風車』29号掲載 1990.10.12執筆)

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