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ミニストーリー
ついてくる男
稲垣 優

 張りつめた空気が漂っている。こんなに人間が多いのに。こんなに多くの車が走り回っているのに。

 会社からの出張で来た初めての街。政令指定都市と言われるだけあって、ビルも多いし、人も多い。いや今はランチタイムだから、よけいに人が多く感じるのだろう。そろいの服を着た女子社員やネクタイ姿のサラリーマンが、昼食の場を求めて大移動しているのだ。

 張りつめた空気の原因は分かっている。さっきから私の背後に距離をおいて執拗につけてくるヤツがいるのだ。二十代前半。よれよれの綿シャツを着て、紺色のキャップをかぶっている。つばがきれいに弧を描いているのが印象的だ。

 JRの駅を降りたときは、気付かなかった。キオスクでコーヒーを飲んだときはどうだっただろう。もしかしたら近くにいたかもしれない。

 駅ビルを出て、ポケットから目的地である取引先の事務所を示した地図を出す。意外に近そうだった。私は歩くことにした。約束の時間まで、まだ1時間以上ある。

 歩行者用信号が赤だった。私はブリーフケースを歩道に置き、腕時計をはずした。汗が出てきたからだ。上着も脱ぐことにした。左腕を抜き上着を受け取ろうとしたとき、背後で信号待ちをしていた老女に手があたった。

「失礼」

 振り向きながら謝罪する。そのときだった。老女の数人後ろに、綿シャツの男がいた。

 男は私を見ていた。いや、私がそう感じただけかもしれない。私が男に視線を向けたとき、男は目をそらした。しかしそれまでは、しっかりこちらを見ていた風だったのだ。

 街を歩いていると、知らず知らずに他人と目を合わすことがある。このときも私は「よくあることだ」と気にもとめなかった。しかし「よくあること」ではなかったのだ。

 歩行者用信号が青になり、止まっていた人々が歩きだす。私も同じように前進する。次の信号で右に曲がる。また信号待ちだ。体を九〇度右に回転させて待っていると、右手の先に綿シャツの男が見えた。やはりこちらをチラチラ見ている。妙だ。

 私は無視して歩きだす。それから十分ほど、いくつかの交差点で曲がったが、やはり男はついてきたのだ。

 気味が悪くなった。交番に飛び込もうかと思った。しかし理由がない。「変な男につけられている『ような気が』する」では、警察はとりあってくれないだろう。

 それにしても、どうして私なんかを尾行するのだろうか。私は政府の要人でもないし、重大なプロジェクトの関係者でもない。取引先に新製品の説明に来た、ただのサラリーマンだ。もしかしたら、誰かと間違えているのだろうか。それなら合点がいく。しかし誰と? 分からない。

 もし男が、その場限りの雇われ殺し屋だったらどうしよう。暗殺を企てるなら、犯行を外部に任せた方がいい。もしそうなら、殺し屋が人間違えをする可能性は十分ある。まずい。

 チラリと男を見る。相変わらず無表情で私をつけてくる。とはいえ、物陰に隠れたりしない。あまりに大胆だ。それが私の恐怖心を煽る。

 映画などでは、こういう大胆な若者が、街の中で突然走り出し、目当ての相手に発砲するとか、切り付けるというシーンを目にすることがある。私はいつ彼が、そんな行動にでるのかと、びくびくしていた。

 また信号で止まった。駅前近くは信号が多い。チラリと男をうかがう。すると彼は、ズボンのポケットに手を入れ、中から金属性のものをとりだしたのだ。銀色に光るそれは、彼の右手の中に入っている。しかし完全に手の中に隠れることはなく、一部が鈍く光りながら、私に姿を見せている。それが何だか分からない。ただあの渋い銀色は、ガンメタと呼ばれるもののようだ。そう、拳銃の色だ。

 一刻の猶予も許されない。私は狙われているのだ。それも人間違いで。ヤツに「俺はお前のターゲットじゃない」と言っても、何の役にも立たない。そんなことはどうでもいいのだ。ヤツはただ、目指す男を一発でしとめればいい。それが報酬のための仕事なのだから。

 綿シャツが、紺色キャップのつばを下げる。目深にかぶり、何かを始める用意をするような格好だ。と思ったとき、彼が動き出した。これまでより速い動きだ。小走りと言ってもいい。焦った。信号を見ると、ちょうど青になったところだ。私も動く。もちろん小走りだ。こんなところで殺されてたまるか。私は何もやっていないんだ。ただ新製品の説明に来ただけなんだ。

 振り向くと、綿シャツはどんどん近づいてくる。まずい。私は全力で走るコトにした。目の前に大きなビルがある。ここへ駆け込もう。中にはきっと、警備の人がいる。助けを求めるんだ。

 自動ドアが開く時間ももどかしく、私は両手でガラスのドアを押しながら中へ駆け込んだ。どこだ、どこに警備員がいる。しかしそこには誰もいなかった。雑居ビルの一階は、各会社を呼び出すインターフォン代わりの電話と、エレベーター乗り場が見えるだけだ。やばい。

 背後から肩をつかまれた。恐る恐る振り向くと、紺色のキャップが見えた。弧を描くつばの奥で、若い男が笑っている。やられると思った。

 男は右手に持った金属性の物体を私に向けてきた。もうダメだ。残った家のローンはどうなるんだ。私は妙なことを思いだした。そして男が言った。

「この携帯、おじさんのでしょ。キオスクで落としたよ」

 目の前に出された携帯電話は、確かに私のものだった。私の好きなガンメタの色。

 私は電話と男の顔を交互に見ながら、状況の理解に努めた。そして笑った。こんなときは、笑うしかないじゃないか!

copyright : Masaru Inagaki(1999.5.28)

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