誰かが廊下を走る音がする。続いて、玄関へ飛び降りているのだろうと思われる音。それは何度となく繰り返されていた。声にならない掛け声のようなものも聞こえた気がする。
廊下に出てみる。「犯人」は三男だった。
「何してる?」
私が聞く。玄関へ飛び降りたばかりの三男はそれには答えず、にそっと笑った。なぜだか彼は、両手にウチワを持っていた。
また廊下へ上がる。玄関から最も遠い位置まで進む。おもむろに玄関の方へ向きを変えると、ダッと駆け出した。廊下の先、つまり上がり框(かまち)で踏み切った彼は、優雅な跳躍とともに、玄関に置かれた踏み板の上に落ちる。タンと小気味いい音がするが、三男は納得していない。また廊下へ上がると、さっきの位置まで戻る。
廊下を走って、玄関への跳躍を楽しんでいるのかと思ったが、どうやら、そうではないらしい。彼は、上がり框からの跳躍のたびに、両手に持ったウチワを激しく動かす。初めはその意味が分からなかったが、次第に分かってきた。
数度の跳躍の後、玄関から廊下へ上がる三男に声を掛けてみた。
「鳥さんにならないとダメかな?」
すると三男は、満面に笑みをたたえ、私に言った。
「うん。やっぱり鳥さんにならないとダメだね」
しかし彼は跳躍をやめようとしなかった。また走り出し、上がり框でジャンプ。玄関の踏み板の小気味いい音を耳にする。そして彼は言うのだった。
「鳥さんにならないとダメだね」
しかしその表情には、落胆の色はない。鳥にならなければ飛べないかもしれない。でも僕は飛びたい。鳥にならなければ飛べないと父は言う、でも僕は飛びたい。彼の頭には、そんな思いしかないようだ。
レオナルド・ダ・ビンチも、空を飛ぶ方法を考案したという。実際には飛べなかったようだが、なんとか大空へ飛びたちたいという思いを捨てることはできなかったのだろう。
現代では、ジュラルミンの塊が空を飛ぶ。だから誰も、自らの肉体だけで空を飛ぼうとはしない。それでも、ハングライダーに人気が集まり、バラグライダーをやる者に羨望のまなざしを向ける。スカイダイビングだって、本当は落ちているのだが、数分は飛んだ気分になれるから挑戦する人がいるのだろう。われわれがテレビなどで見て「気持ちよさそう」と羨望するのは、やっぱり飛ぶことへのあこがれがあるからなのだ。
ところで、どうして三男はウチワで飛ぼうとしたのだろうか。鳥のように飛ぶためには、羽が必要だ。その代用にしたのだろうが、だったらどうしてそれが「ウチワ」だったのか。あまりにも大人が考えそうなことに思えた。
その答えは、数日後分かった。ディズニービデオの「チップとデール」に、ウチワらしきもので羽ばたいて飛ぶ飛行機のようなものが出てくる。ビデオのアニメが好きなわが子のことだ、そのあたりから発想したのだろう。あるいは「ドクタースランプ・アラレちゃん」に出てくる飛行機がモチーフかもしれない。
マンガでやっているように、ウチワで飛ぼうとした三男。なんとも情けないやら、恥ずかしいやらのわが子だが、それでも私は、彼の実証主義的な態度を買うことにした。ウチワでは飛べないことを、幼児の三男は知らない。もしかしたら、アニメのように飛べるかもしれない。やってみなくては分からない。彼はそう考えたのだろう。
これは大切なことだ。大人は、ともすると「どうせできない」と、あきらめてしまう。でも、もしかしたら、できるかもしれない。この「もしかしたら」に懸けるのが、夢を追うことなのだ。
自ら実証してみて、そこで納得する。あるいは、できないことを知ったら、次はどうしようと考えてみる。夢を追うことは、自分にできることをつぶさにやり、自らを高めていくことにほかならない。その芽を摘まないようにしたいと、そのとき私は思った。
相変わらず三男は、暇さえあればウチワで羽ばたいている。次のステップに進むのはいつなのか。最近ではそれが、楽しみになっている。
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