Reading Page

 
コラム
血液型性格判断
稲垣 優

 血液型の話になると、結構盛り上がることが多い。特に男女混合で飲んでたりすると、すごく盛り上がることがある。そういう意味では、血液型ってのは「会話の調味料」って気がする。だれでも血液を持っているわけで(当たり前だが)、そんでもって、だれもがどれかの血液型にあてはまる。だからだれとでもこの話はできる。知り合って間もない相手とだと、特にこいつは有効だったりする。突然コンピュータの話なんか始めてたんじゃあ、ヒンシュクを買う場合が少なくない。でも血液型なら無難ってもんだ。

 で、血液型の話となると、当然のことのように性格の話になる。しかし血液型性格判断ってのは、全く科学的根拠がないといったら、あなたは信じるだろうか。

 平凡社が出している雑誌に『月刊百科』がある。この雑誌の2月号と3月号(もちろん1998年だが)に、血液型の話が載っていた。認知心理学者の菊池聡氏の文章だ。某大学の先生らしいのだが、詳しいことは知らない。菊池氏は以前からこの雑誌に文章を書いていらっしゃるが、なかなか面白くて、いかにも科学者らしい切り口でモノを見ておられるので、毎月楽しみに読んでいる。今回の血液型の話では、血液型による性格判断には科学的根拠がないと、菊池氏は指摘している。

 菊池氏によれば、これまでにもいろいろな研究者が、血液型と性格の因果関係について調べたのだそうだ。しかし結局は「無関係」という結論が出たという。だから心理学の世界では、血液型性格判断は意味のないモノとされているらしい。

 ただ無意味だというだけならいいのだが、実は、血液型による差別が起こっているのだそうだ。会社内のプロジェクトチームの編成を血液型を基準にして行うとか、就職での採用基準に血液型を加えるとか……。血液型という、本人の努力や能力に関係ない部分での区別をされるのは、明らかに差別だと菊池氏は指摘する。

 なるほど、言われてみればそうだ。そういう差別が生まれているのなら、下手に血液型を口にしない方がいい気もする。しかし私たちは「それでも」血液型による性格判断を捨てようとはしない。それどころか「当たってるから」と言って擁護しようとする。本当は当たっているのではなく、当たってると信じ込んでいるだけなのに、本人は気付いていないそうだ。この辺りは、先の雑誌の中で菊池氏が解説しているので、興味のある方は読んでみてね。

 さて、ならどうして人々は、血液型性格判断を信じようとするのだろうか。私はそっちのほうに興味を引かれる。性格判断に科学的根拠がないことを知らない人は多いだろう。ほとんどの人は「統計をとって、調べたんでしょ」と思っている。それが否定されても「でもさあ、やっぱ、当たってるもんね」と思う。んでもって、当たってると思うのが本人の思い込みだと言われても、血液型性格判断を「ばかばかしい」と捨て去ろうとはしない。どうしてなんだ? 私自身、菊池氏の文章を読んで、血液型性格判断に対する認識を新たにした。でもやっぱり、人が血液型の話を始めたとき「それは根も葉もないことなんだよ」と口にする気にはなれない。相手との会話をぶちこわしたくないと思う気持ちもある。でもそれだけじゃない気がするんだ。

 この気持ちのベースは「血液型による性格判断を“信じたい”と思っている」ってことじゃないだろうか。もちろん正面切って「私は血液型の性格診断を信じる。だれがなんと言っても信じる」なんて宣言する気は全くない。そんなんじゃなくて、心のどこかで「根拠がないって言われても、やっぱ信じちゃうんだよね」という声が響くのだ。それは、こいつが正しいかどうかではなく、何か自分の性格を見極められるものがほしいということのように思う。

 性格ってのは、結局はよく分からない。他人の目には自分が「1」という性格だと映っていても、自分では「2」と思っているかもしれない。また状況によっては「3」になることもある。状況別に分類して、怒っているときは「4」だけど、落ち着いているときは「5」だとすることもできる。でも怒り方の度合いによって、それも変わってくる。それより何より、そんな風に自分の性格を細かく分類することじたい、面倒なのだ。

 自分はこんな性格なんだろうなあ、と客観的に自分を捉えたい。そういう願望が、だれにでもあるのではないだろうか。人からどう見られるかも大事だけど、自分がどういう人間なのか、自分自身で知っておきたいというわけだ。ただ、それを正確に知ろうとすると、かなり大変だ。前述のように、さまざまな分類の必要も出てくる。そこまでやる気はない。お手軽に「自分を知りたい」だけなんだ。同時に友人などの周りの人がどういう性格なのかも、お手軽に知りたいってわけだ。

 しかし面白いのは、だからといってその結果(つまり血液型性格診断)を人間関係の根拠にしようとはしない。「あの子はA型だから、細かいんだよね」なんて会話の中では言うけど、実際に「あの子」と付き合うときは、その人がA型だから几帳面で、それを認識した上でこういう付き合い方をしようなんて考えていない。付き合い方は、友人関係の中で自然に生まれ、それに慣れ親しんでいくわけで、実際の人間関係に血液型性格判断が生かされているとは思えない。つまり、あくまで「会話の調味料」なわけだ。

 ただこの性格判断を企業などが使うってのは、確かに問題になる。こっちは「会話の調味料」のつもりでも、敵は「人物判断の根拠」にしようとする。こうなるとやっぱり、菊池氏の言う「差別」は起こってくる。このあたり、どう切り替えたらいいのか、こりゃ、真剣に考えないとね。

 会話の中で「あの子はB型だから、気が多いんだよね」なんて話すのは、ま、許そう。だれにでも「気が多い」面はある。でもそれは、会話の中だけのこと。それを真剣に捉えるのはヤメにしたい。今後研究が進んで、もしかしたら血液型と性格の間に、何らかの因果関係(遠因かもしれないけど)が見つかるかもしれない(心理学者はきっと否定するだろうけど)。でもそうなったとしても「あんたはO型だから、おおざっぱなんだよね」と本心から決めつけるようなことはしたくない。おおざっぱな面は多々あっても、つまり一般的に言えばおおざっぱな性格な人でも、すごく繊細な部分があるかもしれない。人の性格を一つに決めつけることこそに、問題があるように思われる。もちろん「性格の傾向」はその人にある。それを見極めるのは学問的には必要なことかもしれないが、もしかしたら個人の生活の上では不必要なことなのかもしれない。自分(や他人)はこういう性格なんだと決めつけることが、そもそも可能性を縮めるわけで、それは単に後ろ向きの結論となる(って「可能性を縮める」ってことは菊池氏も言ってたような気もするが……)。

 結局は「付き合いやすいか、付き合いにくいか」なんだよね。個人によって「馬が合う」人と合わない人がいる。それはそれでいいわけで「馬の合う」人と巡り会えれば、それが幸せというものだ。馬が合わない人ばかりの中にいると、やっぱり人は不幸を感じると思う。そしてこいつは、単に「性格判断」で決められるモノではない。要は試行錯誤なわけだ。人間関係を続ける中で、互いの付き合い方が分かってくる。「馬が合う」人が見えてくる。それでいい。血液型だろうと、体形だろうと、星座だろうと、とにかく「性格判断」というもので一律に限定してしまわない方がいい。自分としては、自分の性格の傾向を知りたいと思う。友達の性格の傾向も知りたいと思う。でもそれは、付き合いの中から、試行錯誤をしながら得ていけばいい。それを言葉に変える必要もない。自分が感覚的に理解していればいい。そんな気がする。性格を言葉に変えて、傾向を見極めようとすると、結局は性格の一部を限定することになる。あるいは、自分で知らず知らずのうちに限定してしまう要素となる。これは恐ろしいことのように思う。だから、性格判断は、研究的なものは別としても、ま「会話の調味料」に留めておいて、みんなが「会話の調味料」と認識しながら活用するってのがいいような気がするなあ~。って、結局はみんな、そうしてるのかもしれないけどね。

copyright : Masaru Inagaki(1998.3.9)

読みもののページ

ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。