小学生の息子と親子三人でキャンプに出かけた。まだ肌寒い時期でキャンプ場には人が少なかった。そのためか施設の管理人は夜、私たちのテントまで来て話し込んでいった。
少しの酒が入り気分がよくなったころ、管理人に「山ならではの怪談ってありますか」と聞いた。すると管理人は「昔の話だけどね」と言いながらこんな話を聞かせてくれた。
キャンプ場より上は、岩場もある登山道になっている。ある冬、そこへ二人の男がやってきたが、天候が荒れて遭難してしまった。二人は突き出した岩の下で吹雪きが収まるのを待ったが、一人が「助けを呼んでくる」と言って外へ出てしまう。登山経験が少ない故に焦ったのだろう。一緒に待とうと説得する相棒の言うことを聞かない。仕方なく残った男が、防寒用にと自分の厚手の毛糸の帽子を渡したそうだ。
外へ出た男が助けを連れて戻ってくることはなかった。それからしばらくして、このあたりで毛糸の帽子をかぶった男がさまよう姿が見られるようになった。帽子の男は明らかに生きている人間ではないという。
翌朝、目を覚ますとテントの中に子供がいない。外へ出てみると、少し離れた森の中にいた。横には、手に帽子のようなものを持った大人の男が立っていた。
焦った。昨夜、管理人から聞いた話が頭に浮かび、すぐに子供のもとへ向かう。近づいて見ると、男の足は地面についておらず、浮かんでいる。一刻も早くこの場を離れなければと、子供を小脇に抱えるようにして振り返ったとき、息子が言った。
「このおじさん、やさしいよ。僕に帽子をくれようとしたんだ」
息子が言葉をつなげる。
「もらわなくてもいいけど、ありがとうは言わないといけないよ」
言われて私の足が止まった。振り返ると、男は毛糸の帽子を差し出したまま止まっている。そのとき帽子の内側に氏名と電話番号が見えた。
もしかしたらと思い、男に言う。
「帽子を返したいのですか」
男がうなずく。私が続ける。
「電話番号が書いてあるから、今ここで電話してみます」
ポケットから携帯電話を取り出し、件の番号にかける。相手はすぐに出た。そして帽子にある氏名を告げると本人だと言った。
電話の先に帽子の持ち主がいることを告げると、帽子の男は少し驚いた顔をしたあと、小さく笑った。そして振り向き、森の奥へと進んだ。その体は次第に薄くなり、やがて煙のように消えてしまった。
はっとして電話へ意識を戻す。電話の先の人は例の岩の陰にいた人で、遭難の数日後に捜索隊に助けられたが、先に出ていった男は山中で亡くなったそうだ。亡くなった男は、残った男が助かったことを知らない。自分だけ外へ出て、残した男を見殺しにしたと思っていたのだろう。そんな思いが、彼の成仏を遮っていたのかもしれない。
私は電話の男に言った。
「亡くなった彼は、今、あなたが生きていることを知りました。もう大丈夫だと思いますよ」
電話の先からは、すすり泣く声が聞こえていた。
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