生まれて半年のわが子を抱き、大きなあくびをしながら、アパートの階段を下りる。昨夜も息子の夜泣きが激しく、ほとんど眠れなかった。わが子はかわいいが、泣いてばかりだとイライラしてくる。「こいつめ」と文句の一つも言いたくなるというものだ。
あくびと一緒に深呼吸。空気がおいしい。ここは山を切り開いて作った住宅地。周りには鬱蒼とした森もある。
アパートの駐車場を抜け、道路を渡ると公園に出る。平日の午前十時。公園にはお母さんたちが子連れで集まっている。知った顔もたくさん見える。
公園に入ろうとしたとき、入り口の木の陰から声がした。
「子供を見ませんでしたか? 茶色の服を着た……」
見ると、私くらいの年齢の女性がいた。茶色のカーディガンを着て、茶色のスカートを履いている。
「お子さんと、はぐれたんですか?」と聞くと「子供を見ませんでしたか? 茶色の服を着た……」と繰り返す。
小さな子供がどこかへ行ってしまったとしたら大変だ。私は公園内に集まっているお母さんたちのもとへ走り、声を掛けた。
「あの女の方がね……」言いかけて公園の入り口を見ると誰もいない。その後、付近を見て回ったが、子供も女性も見つけることはできなかった。
翌日、また同じくらいの時間に、同じような大あくびをしながら、息子を抱いてアパートの階段を下りる。
公園の入り口まで来ると、昨日の女性がいた。そして言った。
「子供を見ませんでしたか? 茶色の服を着た……」
昨日と同じことを言っている。私は違和感を持った。何かが変だ。
「お子さんが見つからないのなら、警察に届けた方がいいのでは?」と私が言うと、彼女はまた「子供を見ませんでしたか? 茶色の服を着た……」と繰り返す。私の違和感はますます大きくなる。女性はその言葉しかしゃべることができないような、妙な雰囲気を持っているのだ。
どうしたらいいか分からなくて地面に目を落とす。少し考えてから顔を上げると、女性の姿は消えていた。
翌日は、夫の会社がお休み。買い物に出るため、親子三人で車に乗った。森を切り開いて作った道路を抜ければすぐに国道へ出る。車中で夫に、子供を捜す母親の話をする。とそのとき「ケケケケ」と甲高い声がした。何事かと、夫が急ブレーキをかける。
夫が車外へ出る。辺りを見回すうちに一カ所に視点が定まった。私も車を降る。夫が見つめる先を見ると、茶色の毛に覆われた一匹の子猿が、草むらの中で眠るように横たわっていた。
突然、背後に何かの気配がした。振り向くと公園にいた女性がいる。彼女は近づき、子猿を見るとひざまずいて抱き上げた。そして私を見ながら「アリガトゴザイマシタ」と悲しげに言い、森の中へ消えていった。なぜだかすぐに、木の枝が揺れる音がした。夫が「茶色の服を着た子……か」とぽつりと言った。
その日の夜も、息子の夜泣きは激しかった。毎晩イライラしていた私だが、今日はなんだかやさしい気持ちになっていた。「赤ちゃんは泣くのが仕事でしゅもんねえ」と言いながら息子に頬ずりをする。気がつくと、わが子の泣き声は止まっていた。
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