タクシードライバーの中村は、同僚たちが話すのを聞いていた。本当は聞きたくない話だが、近くにいるので嫌でも耳に入ってくる。そうするうちに知らず知らず、話に聞き入ってしまうのだった。
同僚の一人が言った。
「二カ月くらい前の真夜中さ。客を乗せて山上霊園の近くまで行って降ろしたんだ。で、帰ろうとしたら、歩道に女がいた。手を上げるんで、近づいてドアを開けたのさ。とびきりの美人なんで、こっちも気分が良かったんだが、乗っても行き先を言わない。妙だなと思っていると、いつの間にか、いなくなっている。後ろのシートを見ると、べっとりと濡れて…。やっぱりあそこは出るんだな」
聞きながら中村は思った。「頼むからやめてくれ。そんな話を聞いたんじゃ、夜の仕事ができなくなるじゃないか」中村は、幽霊が大の苦手だった。
仕事に出かける時間だ。中村は重い気分のまま立ち上がる。
いつもの場所に止めてある自分用のタクシーに乗り、エンジンをかけた。
街の中を流していたが、今日は呼び止めてくれる客がいない。夕方からの仕事だったが、そうこうするうちに真夜中になってしまった。
「これじゃあ上がったりだ」
独り言を口にしながら青信号を右折すると、横断歩道の二十メートルほど先で手を上げている男が見えた。
「客だ」
ハザードランプをつけながら男の横へ車を滑り込ませる。
客が乗る。中村は明るい声で言った。
「ありがとうございます。どちらまで?」
すぐさま「本町通二丁目」と答えが返ってきた。
「はい、分かりました」
言いながら中村は、客が乗ってから初めてルームミラーを見た。客はこちらを見ずに、顔をそむけている。よくあることだが、今日は、なぜか気になった。なんとなく陰気な客で、しかもシートの上で縮こまっているように見える。
行き先を告げた声は普通だった。しかし今、ミラーの中にいる男は、不気味に見えるのだった。
ハザードランプを消し、右ウインカーを出したタクシーが走りだす。客は、相変わらず縮こまっている。そのとき中村は、周囲を見て嫌な気分になった。山上霊園の近くだったからだ。仕事の前に同僚が話していた「出る」という場所だ…。
この客が幽霊だったらどうしよう。同僚の話のように音もなく出ていってくれるならいいが、もし襲いかかってきたら…。背筋に悪寒が走る。ハンドルを持つ手がぶるぶる震えだした。タダでさえ幽霊が嫌いな中村なのだ。後ろの客が幽霊だったらと考えるだけで、気が狂いそうだった。
走りだして数分が過ぎた。それまでフロントグラスの先だけを見ていた中村だったが、怖いもの見たさなのか、ルームミラーに目がいってしまった。
客はそこにいた。体を小さく丸めて、シートの上で縮こまっている。顔は見えない。背広の襟を立てて顔を隠している。どうして隠す? もしかしたら、鬼のように口が耳まで裂けているのではないか? 中村の想像は膨らんでいく。タダの幽霊ではなく、悪霊や人を襲う妖怪のたぐいだったらどうしよう。
運転どころではない。中村は、客がいつ襲ってくるか、いつその恐ろしい顔を見せるかとびくびくし、二秒ごとにルームミラーを見ていた。
いつの間にか本町通まで来ていた。一丁目を過ぎ、二丁目まで来た。ここらでいいだろう。客には何も聞かずに、勝手に車を止める。口をきいたら、何をされるか分からない。びびりまくりの中村は、とにかく早く客を降ろしたかった。
車が止まり、中村がドアを開けると同時に、客が動いた。客は開き始めたばかりのドアを自力で押すと、転げるように外へ出て、一目散に走り去ってしまった。
「し、しまった。金…」
逃げる客を見て、中村が言う。
でもまあ、幽霊に襲われなくてよかった。いやまてよ。あの客、幽霊じゃなかったのかもしれない。酔っぱらって眠かっただけかも。でも妙だな。だったらなんで、あんなに慌てて車から飛び出していったんだ?
狐につままれた気分の中村が、右手でぽりぽりと後頭部をかく。そのとき、妙な感覚があった。いつもならあるはずの後頭部が、そこにないのだ。代わりに、何かどろっとした液状のものに触れた。その手を前に持ってくると、なんと血だらけだった。
自分の死を知らない中村は、気づかないうちに幽霊になっていたのだった。
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