「ホテルの部屋に入ったら、まず何をやるべきなのか知ってるか?」
出し抜けに道彦が言った。五年前に彼と同期で入社した僕は、道彦が何を言いたいのか分からなかった。
会社の出張で、今夜はこの街に泊まることになっている。そして今、まさにホテルの部屋に入ろうとするときだったのだ。
ぽかんとした顔の僕を見て、道彦がせき立てる。
「だからさあ、ホテルの部屋に入ったら、お前だったらまず何をする?」
「そうだなあ」先に中へ入りながら僕が言う。「まずトイレの場所を確認するな。次にカバンをクロゼットにしまって、ルームサービスなんかが書かれた綴りを見る」
「だよな」後から入って来た道彦は、小バカにしたような口調で言った。「普通そうだよな」
「だったらなんだよお」
「だからダメなのさ」
そう言うと道彦は、茶色のボストンバッグを床に置き、部屋の中を見渡した。何かを見つけ、視線が止まる。それは壁に掛けられた絵だった。
「いいか、ホテルの部屋に入ったら、まず絵の裏を見るんだ」
「絵? ここに掛かってるような絵のことか?」
「そうさ。よほど狭い部屋でない限り、こういうところには絵が掛かってたりするだろ。その裏を見るんだ」
「どうして?」
「お札が張ってあったら、その部屋には『出る』んだよ」
「出るって、何が?」
「お前ねえ、ちょっと鈍感じゃないの? 俺がこう、強調して『出る』って言ってるんだから、決まってんじゃないかあ。お化けだよ、お化け」
「ほ、ほんとか」
自分の声が震えるのが分かった。
「本当さ。お化け封じのお札が張ってあるってことは、何を隠そう、お化けが出るってことだろう。俺は間違ってないぞ」
「うーん。じゃあ、この絵の裏も見るのか?」
「お前だったらどうする?」
急に道彦が弱々しい声で言った。
「どうするったって」僕は道彦と壁の絵を交互に見ながら、どうしたもんかと迷っていた。
そんな僕を見て道彦が言う。
「もしこの絵の裏にお札があったらどうする?」
「そうだよな。お札があったら、今晩ここで寝られなくなるぞ」
「だろ。だったら見るのをやめようぜ」
僕はあきれた。
「お前ねえ、さっき『ホテルの部屋へ入ったら、まず始めに壁の絵の裏を見る』なんて言っておいて、なんだよ、その軟弱な態度は」
「まあいいじゃないか。それに、そんなお札より、実は俺、霊感を信じるんだ。部屋に入ったとき、なんていうのかなあ、背筋がぞぞっとするような場所は、きっと何かいるんだ。この部屋に入ったとき、何か感じたか?」
「いや、何も」
「だったら大丈夫さ。そうと決まったら、早く風呂に入って寝ようぜ」
道彦のいい加減さは今に始まったことではない。僕はそんな彼の性格が気にならなくなっていた。それに、幽霊とお札の話なんて、どうせ作り話に決まっている。
二人がベッドに入り、寝息を立てたころ、壁の絵の近くで声がした。
「こいつ、何言ってんだか。何にも分かっちゃいないぜ」太い男の声だ。
「ほんと、ほんと」早口な男の声だ。
「部屋に入ったとき、背筋がぞぞっとするのは、そこに何もいないからじゃないか。ぞぞっとしないのは、俺たちみたいなのがいるからで、霊界とつながるから空間が安定するってこと、分かってないのかねえ」
「ほんと、ほんと」
「ただこれは、いただけねえなあ。これさえなければ、もっとここで遊べるのに」
「ほんと、ほんとだあ」
太い声の主が、壁から透けた腕を出し、絵を持ち上げた。そこには赤い文字の書かれたお札が、確かに張られていたのだった。
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)