「父さん。母さんとケンカしたの?」
「うるさい。母さんのことは言うな。父さんは怒ってんだから」
庭で車を洗っている父が、うるさそうに言う。
小学校一年の息子は困っていた。父にどう話したらいいのか分からなかった。父は機嫌が悪い。でも、このままにしておくわけにはいかない。息子は幼いながらも一生懸命考えた。そして、恐る恐る父に言った。
「父さん、もし母さんが死んじゃったらどうする?」
「そんなことがありゃ、せいせいするぜ。うれしいね」父がうそぶく。
「本当にうれしいの?」
「うん? いや、その……。そうさ、もちろんうれしいに決まってるじゃないか。ハハハ」乾いた笑いが響く。
「だったら言うけどね。母さんがコタツの部屋で死んでるよ」
「えっ!」父の動きが止まった。
「本当だよ。何をしても、全然動かないもん」
父の手にしたホースが地面に落ちる。水は勢いよく流れ出し、父のサンダルを濡らす。
初めの一歩が、なかなか出せなかった父だが、二歩目からは急に速くなる。猛スピードで家の中へ駆け込んだ。
居間の扉を開ける。テレビは、日曜のお昼の番組をつまらなそうに映している。コタツは、いつものように部屋の真ん中で大きな顔をしている。
居間の入り口からは見えなかった。中へ入る。コタツの向こう側、つまりテレビのすぐ前当たりが見える位置まで移動する。
いた。妻らしいかたまりが、下半身をコタツの中に入れて、横たわっている。
「おい、どうかしたのか?」亭主が声をかける。反応がない。
「おい、冗談だろ。いい加減にしろよ」亭主の声に元気がない。不安が頭の中に広がり、心臓が鼓動を速めていく。
「ね、僕の言ったとおりでしょ」父に続いて居間に入ってきた息子が言う。父は答えない。
父は、どうしたらいいのか分からなかった。これからどうしよう。一人っ子とはいえ、子どもがいる。仕事をしながら子どもを育てるのは容易なことではない。自分の実家は九州だ。そこまで子どもを連れていった方がいいのだろうか。それとも近所の人に協力してもらって親子二人で生活していく方が、子供のためなのだろうか。いやまて、その前に葬式がある。初めての経験だから、何をどうしたらいいのか分からない。葬儀屋に電話をすればいいのだろうか。まてまて、その前に病院で死亡診断書を書いてもらわなくっちゃいけないんじゃないだろうか。それがないと、いろいろ面倒なことになるかもしれないし……。
いや、その前に、本当に死んでいるのかどうか、医者に確認してもらわなくてはいけないだろう。そうなると救急車を呼ぶべきなのか。でも救急車は、死んだ人間を運んでくれないのではないだろうか。となると本当に死んでいるのかどうか、確かめなくてはいけない。もし、死んでいないのなら……。
そこまで考えて、亭主は自分に腹が立ってきた。妻の様子がおかしい。それならすぐに、どういう症状なのかを見なくてはならない。そして一番良い対処の仕方を考えなくてはならないのだ。それにはまず、妻に触れてみることだ。
ようやくまともな思考ができるようになった亭主は、コタツを飛び越えて、女房を抱きかかえる。
「おい、おまえ、どうした。どうしたんだ」
大声をあげながら、妻を揺さぶる。妻のセミロングの髪がしなやかに揺れる。
「なんとか言ってくれ。おい、おーい」
そのとき妻のまぶたが動いた。
「なーに? なんなのよ」妻が眠そうに言う。
「えっ? おまえ、もしかして眠ってたの?」
「あら、そうみたい。最近睡眠不足だったから」
「そうだったのか」亭主がほっとする。同時に笑いがこみ上げてきた。大回りしてあれこれ考えた自分が、ばか者に思えた。
きょとんとしている母と声を立てて笑っている父を見て、息子が独り言を口にした。
「母さんが本当に死んじゃったら、父さんの方が僕より大泣きするに決まってるよ。大人って、本当にウソつきなんだから」
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