気がつくと、彼女は僕の視線を避けていた。うつ向いたまま、黙り込んでいる。ほんの数分前までは、陽気にしゃべっていた彼女だ。何が起きたのか、僕には見当もつかなかった。レストランの中には、ほどよい音量でモーツァルトが流れているが、今の僕には、うるさ過ぎるぐらいだった。
「どうしたんだい? 気分でも悪くなったのかい」
僕は静かに言った。彼女は、ただ首を横に振るだけ。きれいに整えられたセミロングの髪が、ゆったりと左右に揺れた。
レストランに入ったのは七時すぎだった。ここは最近できたフランス料理店。料理のうまさと、フランス料理としては手ごろな値段が喜ばれ、僕たちのような二十代の男女の間で評判になっている。今日も何組かのカップルがテーブルを占領し、甘いひとときを過ごしていた。
「ねえ、思ってたよりいいお店ね。雰囲気あるし」テーブルにつくと、すぐに彼女が言った。
「ほら、あのシャンデリアなんか、でっかくて高そうだ」僕がばかばかしいことを言う。
「お金のことなんか言わないの」
彼女は、母親が子供をやさしくたしなめるように言った。その口調は心地よく、僕の心をやさしく、くすぐった。
前菜が運ばれたとき、ポケベルが鳴った。仕方なく会社へ連絡を入れる。しかし会社の人間は、電話した覚えはないという。知らない誰かが、間違って僕の番号をプッシュしたのかもしれない。迷惑な話だ。
料理が進み、メインディッシュ。口の中でとろけるステーキに大満足。ステーキを食べ終わった後、トイレに立った。
デザートはシャーベットだった。彼女がアイスクリームのたぐいに目がないことを知っている僕は、あまり声をかけることなく、ただ食べた。そしてコーヒー。カップがテーブルに置かれたとき、異変に気づいたのだ。
彼女は、まだ黙っていた。コーヒーはとっくに冷め、ただの黒い液体に変わっていた。僕は混乱していた。
食事中に会社へ電話をいれたのがいけなかったのだろうか。それとも料理が気に入らなかったのか。いや、彼女の「おいしいね」という言葉を聞いたような気がする。それなら、何が悪かったのか……。
そのとき、妙なことに気づいた。三ヵ月間付き合っているとはいえ、まだお互いを知り尽くしたわけではない。彼女には、すでに恋人がいたのかもしれない。僕と会ったときは、たまたま恋人とケンカ別れしていたのかもしれない。今、よりが戻ったということは十分考えられる。
僕はイライラしてきた。もしそうなら、本当のことを言ってほしい。ふたまたをかけられるなんてごめんだ。ヘビの生殺しも真っ平だ。
「なにか、僕に言わなくちゃならないことでもあるのかい?」
僕は静かに言った。口調は平坦で、さっきまでの盛り上がった雰囲気は全くなかった。
彼女は答えなかった。相変わらず下を向いたままだ。
「そんなに言いにくいことなのかい?」
語気が強まった。そのとき彼女が動いた。ちらりと僕を見て、口を開きかけた。確かに何かを言おうとした。かなり言いにくそうだ。かすかな音が、かわいい口からもれたような気もした。しかし僕には、彼女のささやきは聞こえなかった。
僕のいらだちは、加速度的に膨れ上がった。言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ! 俺と付き合いたくなくなったのなら、そう言えばいい。今すぐに別れてやるぞ! 僕は、半ばヤケになっていた。
そして僕は立ち上がった。もう嫌だ。こんなところにいたくない。椅子を後ろに押して歩みだそうとする。
そのとき、彼女が顔を上げた。びっくりしているような表情だ。まるで、僕をこの席から離れさせたくないといった……。あわてたのは僕だった。彼女の急変は僕の歩みを止めさせた。すると彼女は、何かを決心したような目をして立ち上がり、すたすたと僕に近付いた。そして僕の耳元に、ピンクに光る愛らしい唇を近付けると、蚊の鳴くような声でこう言った。
「ズボンのチャックが開いてます……」
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